3-2 思考(概念化)と心の関係性
静かな心で対象に向き合う
いくらしんどくても、マネジメント領域で生産的に動くためには思考(概念化)に舵を切るしかありません。「組織の役に立ちたい」と願う真面目な人は、何とか思考(概念化)のスタート地点に立とうとするでしょう。
思考(概念化)のスタート地点は、「対象に向き合うこと」です。これから多くの情報を必要とするプロセスを踏んでいくわけですから、直面する事象や課題に向き合う熱量を高めなくてはなりません。ちなみに「向き合う」というのは、情報を精査して自分の中に取り込もうとする行動のことです。対象となる物事から発せられる情報を、ただぼんやり眺めるのではなく、必死で自分のものにしようとする取り組みが「向き合う」と称されます。
心身に負担のかかる情報処理を控え、情報に対する感性を高めて対象に向き合うには、それなりの覚悟が必要だと思います。与えられた役割やミッションに対する責任感や、質の高い成果を得ようとする熱量が欠けると、対象に向き合うために集中力を高める事はできません。
私たちは、思考(概念化)を活性化させるための前提条件を、「静かな心で対象に向き合うこと」と定めています。静かな心… ちょっとキャッチ-ですが、具体的にどういうことなのかわかりにくいですよね。ここからは、思考(概念化)と心の関係に触れていこうと思います。
自己執着
私たちは、「心の安定がある程度保たれていないと、きちんと対象に向き合うことはできない」と考えています。集中力を高めて対象に向き合うためには、心の中にそれを邪魔する動きがあってはいけないということです。
例えば、病気になり身体がしんどくて、「何か悪い病気ではないか」と心配で仕方がなかったりする時、自分を心配してくれている周囲の人の気持ちになかなか向き合えなくなります。自分の心のケアへの注力配分が高まり、自分以外の対象に対してエネルギーを使う余裕がなくなって、自分の殻に閉じこもってしまうからでしょう。
「自分の中に重大な関心事が生じた時、他のことに意識が向かなくなる」というのは誰もが経験することですが、そのような状況が常態的に発生しているとなると、これは少し困ったことになります。
例えば、いつも、自分の心のケアにエネルギーを注がなくてはならない人がいます。
「自分は人から良く見られなくてはいけない」
「自分を大きく見せなければいけない」
「自分を強く見せなくてはいけない」
「自分を賢く見せなくてはいけない」
これらは、誰かに言われたわけではなく、自分で勝手に思い込んでいる囚われです。「こうあるべき自分へのこだわりが強く、それを柔軟に手放せない心理状態」を自己執着と言います。
誰の心の中にも自己執着は生じますが、これが強くなり過ぎると、関心の向けどころが常に自分になってしまいます。そして、自分以外の物事に本気で興味を持てなくなります。病気でもないのに常に意識が自分にしか向かないのだとしたら、当然いかなる場面でも集中して対象に向き合うことはできません。
対人場面や集団場面で「良い人に見られなければ!」という執着を強め過ぎれば、愛想笑いや迎合的な行動を重ねて善良な自分を精一杯演じようとします。「強い人に見られなければ!」であれば、虚勢を張って言葉の圧を強め、偉そうな態度を取り続けるでしょう。そうしている間は、その行動が目的化され、そこに大量のエネルギーが注がれてしまいます。その結果、対象に向き合うためのエネルギーが大きく減じることになります。
心の中にあって対象に向き合うことを邪魔するもの… その1つはこの「自己執着」なのだと思います。
せっかくなので、自己執着についてもう少しだけ掘り下げておきましょう。
自己執着は、人から承認されないことへの恐怖が強い人の中で高まります。そうなってしまう理由は様々だと思いますが、集約的には幼少期に十分な承認を受けられなかったことが遠因となるケースが多いのではないでしょうか。例えば、「あんたがあの子みたいにいい子だったらよかったのに」とか「勉強ができたらよかったのに」などと他者と比べられ続けると、自己執着が脈々と強まってしまうことになりやすいのでしょう。
心の発達過程で、「あんなふうになりなさい」などと言われ続け、他人と比べられ続けたりしたなら、「私じゃダメなの?」となってしまうのも無理はありません。子供は誰でも親の承認を強く欲しているので、ありのままの自分を承認してもらえなかったその子は、親が喜んでくれそうな「あるべき自分」を演じることになる可能性があります。現実の自分と理想の自分。2つの自分を持つ自己不一致の状態に陥ってしまう人は、決して少なくありません。
自分に自信を持つことができず、「あるべき自分」の影を追い続けることになってしまった人は、承認されないことに怯え、承認されようとする欲望を満たすことを目的として動くようになります。前述のように、どんな人の中にも多かれ少なかれ自己執着的な要素は存在しますが、それが強すぎてその人の行動全般を支配してしまうようになると、その自己執着は、対象に向き合う力を完全に奪い去ってしまう大きなリスク要因となるのです。
精神的に自立するということ
人生は選択の連続です。「どのキャリアを選択しようか」のような今後の人生を大きく左右するような選択から、「今なんて言おうか」という目先の行動の選択まで、人は一生選択し続けることを求められます。
その選択の場面で、前述のような自己執着に支配されてしまう人がいます。「こういう時はこうしなくてはいけない」と一般論や通念に縛られたり、「人からどう見られるのだろう」と人目を気にしたりして、自分の本来の意思とは異なるものに依存してしまうのです。
一方で、いかなる場面でも、自分の価値観や信念などに則った自由な心で判断や意思決定に向かう人もいます。精神的に自立した人です。何に依存することも、何かに支配されることもなく、自己基軸に沿って動くことができる人が、「精神的に自立している」と称されます。
行動選択の際に何かに依存してしまう人は、その選択が誤りであったとわかった時に、そのミスを依存先のせいにしてしまうことが多くなります。一方、依存を排して自分の意志による行動選択を貫いた人は、その結果がどうなっても自分の責任と割り切ることができ、何かのせいにすることはありません。
「他責と自責」
「仕事ができない人とできる人」
「問題行動を起こす人と起こさない人」
両者を分ける重大な要因が、ここにあります。
精神的に自立している人は、まず自分が自分を受け入れているのだと思います。「自分を受け入れる」というのは、「自分は自分であって自分以外の何者でもない」という自己肯定のことです。自分を受け入れていれば、自己執着に支配されて自分を人と比べる必要もなく、人の目も気になりません。
「あんなふうになりたい」と上昇志向を持つことはもちろんいいことですが、「こうするべき」「ああでなければ」というように、自分で勝手に決めた「あるべき自分」に縛られて自己執着に陥ってしまったのでは、目の前にある肝心なことにしっかりと向き合えません。
幼稚さが漂う不毛な幻想への執着を捨てて目の前の対象にしっかりと向き合い、余計なことに邪魔されずに必要なことにパワーを集結できる力が精神的自立性であり、マネジメント能力の原点である「対象に向き合う力」の正体なのです。
もちろん一概には言えないのですが、精神的に自立できるか否かは、幼少期に親からどう接してもらったかによって決まることも多いのではないでしょうか。「あんたは腕白だし、ちっとも勉強しないけど… それでもあんたはかけがえのない私たちの子供なんだよ」という親のメッセージを受け取ってさえいれば、その子供は親からの承認を実感し、自分の存在意義を確認することができます。そうなればその子供は、現実の自分を受け入れて生きてゆくことができ、理想の自分を演じる必要が生じることはありません。
親も自分が生きていくのに大変なので、そんなにいつもいつも完璧な親でいることなどできるはずがありません。時に感情的になったり、子供に不当な要求をしてしまったり、子供から逃げたいと思ってしまったり…
そんなこともあるでしょう。でも、
子供の目を見て話してあげる
褒めてあげる
抱きしめてあげる
時々でいいのでこれさえやってあげていれば、子供が精神的に自立した人間になっていく確率が高くなります。子供が自由な心を手に入れる可能性が高くなります。親の責任は重大です。
思考(概念化)の前提
私たちは、「精神的に自立していることが、思考力(概念化能力)が働く前提である」という仮説の上で、アセスメントを推し進めています。
何だか異論が集まりそうです。「エビデンスは⁉」と言われそうですね。
エビデンスと言われると困るのですが、私たちの年間2千人余りのアセスメント臨床に限って言えば、「精神的に自立しておらず心が安定しない→対象に向き合えず思考プロセスに進むことができない」という因果関係に、例外は現れておりません。
「情報の概念化を進めるには、どれだけ熱量を凝縮的に高めなくてはいけないか」を知れば知るほど、心理的な妨害の無い状態で対象に向き合うことの重要性にこだわりたくなります。
精神的に自立していない人の心の中には、強い自己執着があります。前述のように自己執着は、「対象に向き合うことを邪魔するもの」です。「対象に向き合うことを妨害するものを常に抱えている人は、概念化に進めないだろう!」と考えるのは至極当然だと思うのですが、いかがでしょうか。
私たちは、アセスメントで被験者の思考力(概念化能力)を見極めようとする時、その人の精神的自立の度合いに着目します。
人の思考力(概念化能力)を知りたければ、その人の話したことや書いたものから判断しようとするのが一般的ではないでしょうか。しかしそれでは、それが今概念化されたものなのか、あるいは既製品が持ち込まれたのかを、正しく識別することができません。発信された内容に一生懸命向き合っても、その作成に寄与した能力が学力なのか思考力(概念化能力)なのかを知ることはできないのです。そしてアセスメントの現場では、被験者の発するアウトプットの多くが学力由来なので、余計に用心深くなってしまいます。
アセスメントで思考力(概念化能力)にアプローチするのは、決して容易ではありません。被験者が話したことや書いたことを観察の対象にはできないので、第2章で述べたような「与えられた情報の使い方」に視点を絞り、その人が思考(概念化)プロセスに入ろうとしているのか否かを徹底的に精査します。これは結構難しく、プロアセッサーの腕の見せ所と言えるでしょう。
一方、精神的自立を測るアセスメントは、相対的に難易度が下がります。精神的に自立していない人は、強い自己執着から生まれる特有の行動を見せることが多いからです。精神的自立度が極めて低ければ、その人の思考(概念化)しない現状を高精度で推察でき、高ければ上述の視点と併せて思考力(概念化能力)の確定診断に進んでいきます。
「精神的自立があってこそ思考(概念化)が動く」という説は、この15年間ですっかり私たちのアセスメントの前提となってしまいました。精度の検証も十分に重ねてきましたので、安心してこの説を信じていただいても問題無いと思います。
【第9回】へつづく