4.「やりっぱなし」「言いっぱなし」は、本当に格好悪い
自己充足行動のほとんどは、「発散」という概念に集約されます。「やりっぱなし」や「言いっぱなし」ということです。でも、「発散行動はいけないもの」というわけではありません。発散は収束を伴うことで、仕事のプロセスを形成します。戦略立案や問題解決などに臨む際の思考モデルとして、課題やアイデアを洗い出し(発散)→絞り込んで決定に進む(収束)という流れの繰り返しが推奨されているのです。誰もがよく知っている「ブレーンストーミング」では、「さあ、誰も邪魔しないから、どんどんアイデア出してね」と、気前よく発散が許されていますよね。
禁止されるわけではなく、制御も求められず、時に強く奨励されることもあってか、みんな発散が大好きです。最近では、アセスメントのグループ討議が「大発散大会」になってしまうことも少なくありません。新卒採用アセスメントでも、管理職向けのアセスメントでも、高学歴の人ほど発散のパワーが強まる傾向があります。潤沢な知識を持つので、ネタには限りが無いのでしょう。
第2章でも述べましたが、討議の開始直後に「問題点の洗い出し」が始まり、それが終わるとそれぞれの対処法が「洗い出される」のは、すっかり一般化された光景です。そして、「発散したら収束してくれぃ」という私たちの願いもむなしく、その流れのまま討議は終わります。散らばった情報を一生懸命回収して収束に注力する人を、最近あまり見ることがありません。
なぜみんな発散が大好きなのか? なぜ収束に動いてくれる人がいないのか?
その答えは簡単です。発散は楽で、収束がしんどいからです。頭の中にある情報を引っ張り出すだけの発散行動には、学力的情報処理力が使われます。一方、散らばった情報を拾い集めて結論づけに進む収束行動には、思考力(概念化能力)が求められます。「思い出す」より「新たなものを創出する」方が自分の心身に負担をかける… 第3章で述べたとおりです。
発散行動への専念を決め込んでいる人は、「自分が情報をばらまいたら後は誰かが何とかしてくれる」とでも思っているのでしょうか。「いつも収束役の人がいて、発散の後始末をしれくれる」などというしくみはどこにもありません。発散をするのであれば。自分がそれを収束する前提を手放さない!それが大人の礼儀です。
思いついたことや知っていることを発散する人は、多分、気持ちがいいのだと思います。たくさん喋り、時に斬新なものを持ち込んで、他者から「格好いい」「頭がいい」と評価されることも目的化されているのでしょう。でも言うまでも無く、心ある人は、利他性や献身性に溢れる収束行動に触れた時に「格好いい」と感じます。発散行動を見て「お勉強できるのかもね」とは思っても「思考力(概念化能力)に優れる」とは評価しません。そのことに早く気づいて欲しいと思います。
発散は、収束とセットになってこそ意味を持ちます。発散した人が収束に興味を持たない場合、誰かが収束しなければ、成果の獲得には絶対に繋がりません。もし誰も収束の労を取らなければ、独りよがりの格好悪い人によって発散され無駄になった情報だけが、行き場も無く残されることになります。発散行動に走りがちな人には、無思考な承認欲求を掲げて安易な自己顕示に走ることがいかに「格好悪い」のかを、深くイメージして欲しいと思います。
5. 返事を待つ人の気持ちを考え、もう少しだけ緊張感を高めましょう
初対面の人の利他性や自己中心性をその場で見極めようとすることには、少し無理があると思います。他者に対する責任を背負って継続的に熱量を高める力、すなわち持続性の度合いを知るためには、その人の行動を一定時間追わなくてはいけないからです。
極めて自己中心的な人であっても、会ってすぐに強烈な負のパワーを示すわけではありません。そんな人でも初対面の人に嫌われたくはないので、行動の突出を抑えて優しく思いやりのある自分を精一杯表現するでしょう。自己防衛行動とは違って、多くの自己充足行動に一発の行動でそれとわかるようなインパクトはありません。周囲の人はしばらく同じ時間を過ごす中で、その人の不安定さや自己制御の弱さを徐々に感じ取り、徐々にストレスが積み増されていくことになります。
そんな特性に悩まされているのが、人材採用の現場です。どの採用企業も、「自己中心的な人や他者への興味が薄い人など絶対採りたくない」と考えていて、応募者の利他性を見極める術を躍起になって探しています。しかしながら、それとわかるまでに時間を要する自己充足行動を、採用選考に与えられた時間内で浮かび上がらせるのは、アセスメントセンターでも使わない限り容易ではありません。(宣伝ではないです…)
それでも、応募者との接点が生まれた時から採否を決める直前までの間に、何とか怪しい行動を炙り出したいと願う採用担当者の皆さんには、「返信メールのタイミング」に敏感になることをお薦めしています。説明会や選考の案内、選考の進捗報告、合否の連絡などに対する返信の安定性が、その応募者の利他性を映すのです。「返事が遅いな」「この間は早く返ってきたのに今回はえらく待たせるな」などと、メールを送った側が多少なりとも違和感を覚えた時、多分その応募者の自己中心性は許容範囲を超えているのでしょう。
相手が返事を待つ心情に寄り添うことができ、待たせることを恐れる気持ちが少しでもあれば、そうそう返事を留保できるはずがありません。今はスマホにもメールは入るのでしょうし、忙しくても急な用事があっても一言返すくらいはできるはずです。相手の企業への志望度が高かろうが低かろうが、そんなことも関係ありません。
自分が書くメールの内容に気を遣っても、返信のタイミングに関しては意外と無防備な人が多いようです。採用選考のステージで、応募者が無意識的に自己中心性を示してしまう行動は、これ以外にあまり思い浮かびません。「メールの返事が遅いから落とす」という短絡は避けたいところですが、「みんな忙しいんだから仕方ないよね…」などと変に寛容になることなく、その情報を採否の判断材料の中にしっかりと組み込んで欲しいものだと思います。
日常の仕事場でも、なかなか返ってこないメールにストレスを感じている人は多いのではないでしょうか。
しつこいようですが、1日経っても数行のメールを返せないほど忙しい人はいないはずです。普段仕事で付き合っている人から返信を求めるメールを受け取ったら、少なくても送った人の都合や心情を頭に置き続けてください。内容を受け入れられない時には、なるべく早く断ってあげてください。そうすれば相手は次の動きを取ることができます。「少し検討したい」「考えたい」というなら、一言その旨を告げてあげてください。とにかく、自分を待ってくれている相手を放置するという子供じみた重罪だけは犯さないように、心がけて欲しいと思います。
一般社会でも、人物観察の適所として相手のメール返信スタイルに着目する人は少なくありません。意識だけ強めればたいして労力を要することではないのですから、少しだけ緊張感を高めて、メール返信のタイミングをなるべく前倒すようにしたいものです。青臭い言い方になりますが、少しでも相手への思いやりがあれば、簡単なことだと思います。
6.自己愛と生産性との間で折り合いをつけましょう
ふわふわしたことを言うのが好きな人っていますよね。理念や精神論を好み、耳当たりのよい抽象論を頻繁に口にする人です。概念の世界で泳ぐことを好む人は少なくありません。
人材採用に応募してくれた人と社長面接で盛り上がり、「貴社の理念に共感しました!」「社長みたいな人とぜひ働きたいですぅ」などと言われ嬉しくなり即採用! でもその人は入社後いつまで経っても営業電話1本かけようとしないし、外にも出ていかない。時々声をかけると、あの面接の時と同じように嬉しそうに事業ビジョンを語るのだが、実務への注力を高める気配は一向に見られない。「その事業の成功を目指して実際に仕事を創る人」として雇われたその人は、夢を語るのは好きだが泥臭く実務で頑張ることが大嫌いだった…
過去にこの類の失敗談を私に打ち明けてくれた経営者は、1人や2人ではありません。どの社長さんも、「持ち上げられていい気になった自分が悪いんだけど…」のような自省の弁を交えながら、痛恨の思いを隠す苦笑いを浮かべて語ってくれました。「会社の理念や事業モデルをそんなにもてはやされたら、その会社のためにきっと頑張って動いてくれるのだろう…と思ってしまうのも無理は無いよな… 他人事とは思えないな」と同情しながら、私は黙って話を聴くしかありませんでした。
概念の中で遊ぶのは大好きだけど、その概念の実現に向けて具体的な注力を求められるのは大嫌い…そんな人は決して少なくないと思います。ふわふわしたことを言っているだけなら楽しくて気軽ですが、その具体化や実現に向けて動くとなると責任が伴ってきます。抽象論に留まりたい人の本質は、そこにあるのではないでしょうか。
概念の中で遊ぶのが好きな人は、概念化という知的な領域に触れている自分を愛おしく感じているのかもしれません。生臭い具体の波に飲み込まれてじたばたすることなく、少し高いところにいて涼しげに絵空事やきれいごとを語る自分が大好きな、いわゆるナルシストなのだと思います。
「知的な領域に触れて」とは言っても、そのような人が真面目に概念化能力を働かせているわけではありません。
概念化とは、複数の確固たる具体に立脚した情報処理です。そこで成立した概念には必ず根拠となる具体があり、概念化能力を持つ人は、具体を概念化するだけでなく、概念から具体に立ち返ることもできます。共通項を持つ複数の情報をしっかり概念化した人であれば、当然ながら使った情報を頭の中に残しており、いつでも復元できるのです。あるべき姿として、情報を概念化した人には、その概念の根拠を常に示す準備が無くてはいけません。
第3章で述べたように、概念化は辛くて重い取り組みです。時間もかかるし労力を伴い、相応の疲弊も招きます。実の伴わない抽象論を軽やかに発散する人が、そんな概念化のプロセスを経ているはずもなく、きっと具体を伴わない空論を妄想しているに過ぎないのでしょう。妄想と概念化は似て非なる取り組みです。そもそも妄想は何かを積み上げたものではないので、根拠も実現への手段も存在しません。汗をかかずに格好いいことが言える妄想の世界は、「タイパ志向」のナルシストさんたちにとって、極めて快適な場所なのだと思います。
アセスメントのグループ討議でも、きらきらしたセリフを唐突に差し込んでくる人は少なくありません。
「ビジネスの世界はとにかく信頼が第一だと思うんですよね」
「とにかく仕事の場であっても対等な関係が前提だと思うので」
「何より大事にしなくてはいけないのは、人と人との絆です」
言っていることに間違いは無いのですが、課題に沿って諸説がうごめく下界にいきなり天井人が現れて崇高な正論を吐かれると、その場には実に微妙な空気が漂います。いろいろな意味で次元の違う人間が1人浮かび上がったことに周囲のメンバーは戸惑いを隠せませんが、当の本人は愉悦の表情を浮かべます。自分だけが浮上したその空気が、気持ちよくて仕方がないのだと思います。
反論される余地は無く、そうかと言って展開される話でもないので、議論はすぐに正常運転へと戻り、その「正論」は無かったことになります。結局、生産性はゼロ(あるいはゼロ以下)となり、誰の得にもなりません。喜んだのは、その本人と、わかりやすい「自己充足行動」をキャッチできてアセスメントが楽になった私たちアセッサーだけではないでしょうか。
自分が気持ちよくなることだけを求めて、生産性に欠ける行動を重ねるのが、ナルシストの傾向が強い人の特性です。多少その気があっても自己愛と生産性との折り合いをつけている人がほとんどだと思いますが、そのバランスが崩れてしまうと、上述のような痛々しい姿を見せることになります。
自己愛と生産性との折り合い!
私も含めて「かっこつけ」の素養を持つ人は、これを心に刻み込んでおかなくてはいけないのだと、あらためて痛感します。
7. 前提やミッションなど、人様が定めたものを意識に留め置きましょう
アセスメントでは、「人への興味」という概念が重用されます。それは、他者に心を寄せる利他的な精神性を意味します。「人に興味がありますか?」と尋ねられたら、多くの人が「もちろんです!」と答えるでしょう。でも「あなたは人に対して本当に思いやりがありますか?」という質問に自信を持って「はい!」と答えられる人がどれだけいるでしょうか。「人への興味」という言葉には深い意味があり、その本質が世の中で共有されているとは思えません。
私たちは、他者の利害や心情に向き合うことができる人を、人への興味がある人と称しています。自己中心性が強く自分のことばかり考えている人がいくら社交的なふるまいをみせても、その評価を得ることはありません。「自分がこうしたらあの人は得をするのか損をするのか」「あの人はどんなふうに感じるのか」という他者への思いこそが私たちの言うところの「興味」であり、それが自分の意識の中でどれくらいの比率を占めているのかが問われます。
人への興味が強い人ほど、自分の行動に制御がかかります。他者に対する懸念や配慮が大きいほど、自分の本能的な欲望が制御され、バランスの取れた合理的な判断や行動を示すことになるのです。ここ数年の新卒採用アセスメントでは、大学生のみなさんの自己制御力が年々確実に低下して行くのが気になります。最近では「生まれてから今まで一度も親から叱られたことがないんじゃないか?」と思えてしまうような人も増えてきて、「親子の関係性の変化」というデリケートな問題を覗いたような気になってしまいます。
さて、人に興味が無い人は、人が定めたものや人から与えられたものにも興味を持てません。考えてみれば当たり前なのですが、これが結構困ったことになります。人が定めたものや人から与えられたもの…例えば前提やミッションなどは、組織活動を送る上で常に誠実に向き合い続けることが求められます。これらの多くは自分でない誰かが用意し定め管理しているものなので、人への興味が薄い人の中ではそれらへの興味も薄くなってしまうわけですが、それが時に大きな問題になるのです。
前提やミッションは、与えられた瞬間から与えた人に対しての責任を背負うことになるので、それらを意識に留め置くことによって自分の行動に自分なりの制御をかけるのが普通です。ところが人への興味が薄くなるほど制御が働きにくくなり、「自己都合で誰にも邪魔されずに自分のやりたいことをやる自己中心的な人」の誕生に向かいます。
「司会を置かないで」と書かれているのに、開始早々司会役に収まる人。
与えられた情報とは全く関係の無いテーマを勝手に設定する人。
最重要顧客の社長から依頼された件なのに、その社長を馬鹿にする人。
定められている終了時刻を待たず、勝手に討議を終えようとする人。
高いコンサルティングフィーをいただいているのに、極めて稚拙な方法論を躊躇なく示して満足している人。
アセスメントのグループ討議で私たちがよく目にする「前提が欠落した人」の例です。「この条件で討議を進めてください」と事前に示された事がいとも簡単に無視される、あるいは忘れ去られてしまうのは、その前提と接した時にまったく興味を抱かなかったからでしょう。自己制御の必要を持たないまま自分の欲望に忠実な取り組みを貫いた結果、必然的に上述のような困った行動を重ねることになり、周囲をミスリードして全体の生産性を著しく低下させることになるのです。
周囲から「あの人は自己中心的だ!」と評されている人は、漏れなく前提への意識が欠けているはずです。ミッションに対する意識も、すぐに薄まってしまうはずです。すべて、「人への興味が薄い=人が定めたものへの興味が薄い」という特性に起因すると考えていいでしょう。
自らが外連味なく動くことはとても大事ですが、必要な情報が欠けたまま目標設定が敢行されると、行動から合理性や妥当性が失われることになります。特に、前提やミッションなど他者の意志に絡む重要な情報を落としてしまうと、その人の行動は直ちに自己中心的とみなされ、「幼児的」「子供っぽい」というレッテルをも貼られかねません。
1つの行動に反応して動く怖さを、あらためて強く感じます。
****************************************************
アセスメントの現場で毎日のように目にする「精神的に自立しない人によく見られる行動」を、何とか大きな漏れが無いように集約できたと感じています。
そして、これらの行動に走らないように自分の行動を制御することこそが、精神的自立を目指す人の「頑張りどころ」となります。あらためて読み返してみると、「これはどうしてもできない!」と思えるような難しいものは1つも無いように思えるのですが、いかがでしょうか。
もちろん、意識して頑張った時にはその行動を制御できたとしても、それを習慣として自分の中に落とし込むまでには時間がかかるものも多いと思います。長年をかけて確立されてしまった底堅い負の習慣の前に、制御が阻まれてしまうこともあるのではないでしょうか。多くの人が自分の行動を変えることに消極的になりがちな理由の1つは、そこにあるのでしょう。
でも、自分の行動を変えたいと本気で願う人が、変えるべきところを正しく知ることができたら、多少の時間がかかっても必ずその願いはかないます。
今まで無意識のうちに通り過ぎていた「精神的自立に向けたポイント」の存在を知ることで、その後少なくてもそこを無意識に通過することは無くなるでしょう。そこで頑張り切れなくても、後から「できなかった…」と悔しい思いを抱くことができれば、それは自己変革に向けた貴重なプロセスとなります。
ここまでに記した14のポイントは、相手や周囲のことにまで意識を向けることができず、自分の殻の中に籠った結果の行動を戒めています。情報への接触を自ら制限してしまった結果、限られた情報の中で動くことにならないよう、意識の解放を求めています。
この行動変革を確実に進めることができれば、「1つの情報に反応して動く」という行動を選択する必然性が、徐々に失われていくのではないでしょうか。
> ⑬ へ続く