なぜマネジメントがうまくいかないのか ⑮ -最終回-      【悪しき習慣からの脱却(その3)】



5-5   書くことは、思考力(概念化能力)の強化に欠かせない


遅筆


いきなりですが…、私は遅筆です。アセスメントのフィードバックレポートやお客様への報告書、そして時々雑誌などの執筆もあって、書く仕事が勤務時間全体の半分以上になっていると思うのですが、書く時はいつも苦しいです。今もそうですが。ただ、とりあえずこの節を書き始めることができたので、今はだいぶ苦痛が減ったところです。最初の一行を書き始めるまでの、あの逃げ場のないしんどさを、どう表現したらよいのでしょうか。


書かなきゃ! でもテンションが高まらない。ちょっと現状逃避してネットサーフィン。無駄な時間を使ってしまった。締め切りが近いのに。よし書こう!う~ん…何から書き始めてよいものか… 苦しい! ちょっとテレビ観よか。


概ねいつもこんな感じです。常日頃の非生産的な時間の使い方をあらためて文字に起こしてみると、本当に情けないですね。何とか書き始めると人並みのペースで書いていけるのですが、それまでに時間を使い過ぎて、遅筆から脱却できません。PCのディスプレーに最初の一行が打ち込まれるまでに何も産まれない数時間を過ごすことは、もはや私のルーティンです。


ここまでポンコツな例は珍しいと思いますが、文章の書き始めに苦労する人は多いのではないでしょうか。様式や定型がある文章作成ではなく、まったく任意の目標設定が必要な「ゼロからイチを産む」ケースでは、スタート地点で最も大きな注力が求められます。まだ書き始めようとしているところなのに、これからたくさん書かなくてはいけないのに…というステージでいきなり大きな試練が訪れるわけですから、精神的負担は大きいですよね。


私の場合には、自分の中に時間軸を越えて散らばっている情報から、どの情報を文章の真ん中に置くかの軽重識別に苦しんでしまうのだと思います。そのためには、自分の持っている情報の全体像を描く必要があるのですが、それがうまくいかなくていらいらするのでしょう。


考えてみると、これは思考(概念化)プロセスそのものです。「情報を集積して物事の全体像を形成し、その本質を浮かび上がらせて目標設定に動く」というあの図に示された情報処理が、ゼロイチの文章作成には求められるのです。


「思考(概念化)には困難を伴いますよ」「苦しいですよ」と何度も言ってきました。文章を書き始めるのが苦しいのは、当然と言えば当然です。


書くことで思考力(概念化能力)が強化されます


でも逆に考えれば、苦しさに耐えて文章を書くことは、きっと思考力(概念化能力)の強化に繋がります。「さあ、自由に書きなさい」と言われた人がやるべきことが、まず思考(概念化)プロセスを踏むことなのですから。


学校でも、社会人になってからも、読書の大切さを語る声の大きさを感じます。でも、それに比べると「もっと書きなさい」って、あまり聞かないと思いませんか。本を読むことが大切であることに異存はありませんが、それと同様かもしかしたらそれ以上に、「書くこと」で得られるものは大きいのではないでしょうか。


昨今では、これまでの反省を踏まえて、学校教育における思考力(概念化能力)の強化がテーマになっているようです。その流れの中で「書かせる教育」が形になってきていればよいのですが。


書くことも、思考(概念化)と同様に苦しいことなのですから、どこかで強いられるしくみが無いと、なかなか実践には至りません。子供のころから、もっとたくさん自由な文章を書かされる教育を受けないと、その後に、思考(概念化)を伴うアウトプット能力が鍛えられる機会には、それほど恵まれないかもしれないのです。


私の場合は、小5~小6の2年間お世話になった担任の先生に、徹底的に文章力を鍛えられました。その先生は、自分が文章を書くのが好きで、人に文章の書き方を教えるのも大好きでした。国語の時間は、他のことを脇に置いて、毎時間作文を書かされたのを覚えています。


「文章は人に伝えるために、そして読んでもらうために書くんだよ」という教えに従って、私は毎週2~3本の作文を書き、そこに赤ペンを入れてもらうのを楽しみにしていました。結構厳しいことを書かれた覚えもあるのですが、不思議に嫌になることはなく、必死に食らいついていきました。


2年間で文章が大人になったのが自分でもわかりましたが、何よりも、文章を書く時の心構えが変わったことを自覚しました。4年生までは自分の頭に通り過ぎたことをただ並べていくだけだったのが、まず持っている情報を頭の中で並べることを覚え、「まず何を書くべきか」を考える習慣が身についた2年間でした。当時はサボったり現状逃避を図ったりする手立ても無かったので、書き始めにあたっては、真面目に頭を抱えてうなっていたのだと思います。


今思うと、私が誰かに文章の書き方を教わったのは、あの2年間だけです。その後、あの時のように、教育として強制的に文章を書かされたことはありません。自由に文章を書かされる教育って無いものなのだなあ…と、あらためて思います。あの2年間がその後の私の文章力にどのくらい影響を与えたのかはわかりませんが、「考えて書く」「書くために考える」ということをあの時に教わることができたのは、本当にラッキーでした。有難いことだと思います。


私は、今、教育の現場にいらっしゃる先生方の中から、「書かせる教育」にこだわりを持つ方が1人でも多く出てきてくださることを切に願っています。もし学校が、思考力(概念化能力)強化を目指す教育に本気で舵を切るのであれば、ぜひそこにも光を当てて欲しいと思います。


自力でアウトプットの機能を高めましょう


長きに渡って学校教育では、情報をインプットすることに主眼が置かれてきました。知識を蓄えさせて大人になるための準備をさせるという意図があったのでしょう。確かに大量の知識を持つ人が受験勝者になる…という構図はあります。社会に出ても、情報をたくさん持っている人ほどそつが無く、仕事を覚えるのも速くて、作業領域では貯金だけで勝っていけるかもしれません。


でも、マネジメント領域で動くことが求められるようになると、情報をたくさん持っているだけでは前に進めなくなります。持っている情報に依存せず、自力での目標設定に向けた情報処理を頑張らなくてはなりません。それまで見えていなかった全体像を浮かび上がらせ、自分の進む道を自分で定める…、これは無から有を産みだすプロセスであり、そこに必要なのはアウトプットの力です。大人になってから必要になるのは、インプットの力よりもアウトプットの力の方だったのかもしれません。


今の日本には、「新たなものをアウトプットするパワーが弱い」という現状があります。学校で、アウトプットについてはあまり教えてもらえなかったからなのでしょうか。


いずれにしても、これからの時代は先行き不透明感が更に増してくるので、過去にインプットしたものにはどんどん頼れなくなります。各自が自分のアウトプット力の強化に真剣に取り組まないと、そんな時代を生き抜いていけません。もう教育のせいにしている場合ではないですね。


アウトプット力とは、話す力と書く力です。話す力の強化については、まず前回の 「5-3」 を頑張ると先が見えてきます。そして書く方については、とにかく書く機会を増やすしかありません。仕事で書く機会を得ることが可能であれば、積極的にその機会を獲得しにいくべきなのは当然ですし、もしその機会を作るのが難しければ、自分で書く場所を作るしかないでしょう。


人に見せることを前提とする

自分なりに文章をしっかりと完成させる

ある程度のボリュームを書く


つけるべき条件はこのくらいでしょうか。


「人に見せるためにしっかりとした文章を書かなくては」という縛りが無ければ、多分悩まずに筆が走るでしょう。でもそれでは、「情報処理に揉まれる」という重要な目的とは遠く離れたところで動くことになってしまいます。ボリュームの件も同じです。苦しむために書くわけではありませんが、苦しまないとあまり意味が無いでしょう。思考力(概念化能力)の強化という重大なテーマを背負うのですから、少しストイックになってもよいのではないでしょうか。


書くのは本当に苦しくて大変ですが、私の場合、自分が大満足できるような文章を書けた時には、その文章が可愛くて仕方なくなります。文章が自分の分身のように思えることもあり、まさにナルシズム以外の何物でもありません。でも、熱量を高め苦難を乗り越えて文章を書きあげた人なら誰でも、それに近い感情に浸るのかもしれませんね。


産みの苦しみを味わった後には、必ずご褒美が待っています。


5-6   本質から離れて動く怖さに怯えることで、サボりたい欲望は制御される


本質から遠い所へ逃げていく人たち


第4回(④)で述べたように、アセスメントのグループ討議演習は、「顧客企業の経営問題について議論するコンサルティングミーティング」という設定で実施されます。その経営問題が記されたシートを読み込んでから討議に臨むのですが、そこには「普段から思考回避の傾向にある人だと、さらに逃げ出したい気持ちが強くなるようなしくみ」が盛り込まれているので、そのような人は、討議が始まるや否や、楽ができる場所に一目散に逃げ込もうとします。


その逃げる方法の1つが、「わかりやすいキーワードを見つけ、それを起点にして自分の世界を作る」という悪手です。「この難しい世界から早く逃げ出したい」という思いが強くなり過ぎて、「この課題についての討議をよろしく」という前提など早々に手放したその人は、何とか自分に馴染みの深い場所を見つけて、そこに居座ろうとするのです。


「若手の早期離職が増えている」という情報に飛びついて、「それは採用に問題があると思うので、採用の方法を再考したらよいのではないでしょうか」と提案した人の例を、もう一度使わせてください。


「早期離職」というキーワードに飛びついた人は、課題シートの文字の羅列に溺れそうになる中で、見慣れた言葉に救いを見出したのだと思います。過去に自分の部署で部下の「離職」に悩んだことがあったのか、あるいは採用の仕事に関わったことがあったのか、いずれにしてもその人は、「早期離職」という概念を身近に感じたのでしょう。


「そのテーマなら自分にもわかることがたくさんある」と嬉しくなってしまったその人は、そこを自分の居場所と定め、その場所で残りの時間を過ごそうと決めたのでした。その結果、やはり何をどうしたらよいかわからなかった他のメンバーも、安心してその場所に集まり、そこでは、「企業がどうしたら社員の早期離職を防げるか」というテーマの議論が盛り上がることになりました。


討議に先立って配られたシートには、経営環境の問題や経営者の問題など、実に雑多なテーマが複合的に織り込まれています。もちろん、早期離職について書かれたものではなく、様々な問題が生んだ1つ事象として「早期離職が頻発している」ことが取り上げられているに過ぎません。そんな些末な話題に、グループ討議のメンバー全員が群がってしまうのは、とても怖いことだと思います。コンサルティングを依頼された顧客企業の社長がこのミーティングをご覧になったら、さぞかし驚かれご立腹されることでしょう。


演繹法の濫用


あの例にあったように、「早期離職の頻発」というたった1つの情報と、「早期離職の原因は採用にある」という自分の中のルールを直結させて「それは採用に問題があると思うので、採用の方法を再考したらよいのではないでしょうか」と結論付けるような情報処理を、私たちは演繹法の濫用と称しています。


演繹法は、1つの物事を一般的なルール(一般論)に当てはめて結論を導く手法であり、複数の事象をもとに1つの結論を導く帰納法と併せて、ロジカルシンキング(論理的思考)の手立てとして世の中に紹介されています。もちろん必要な手法ではあるのですが、この例のような場面で1つの情報を切り取ることには大きな問題があり、「早期離職が起きるのは採用に問題があるから」というその人が持ち出した一般論も正しくはありません。「早期離職が起きるのは、採用に問題がある可能性もある」ならわかりますが。演繹法がいけないのではなく、稚拙な情報の切り取りと独善的なルールの運用に問題があると言うことです。


この演繹法の濫用は、どの階層のアセスメントでも頻繁に見られます。その理由としてまず挙げられるのは、全体に向き合うことを避けて、自分が入っていきやすい世界を映す1つのキーワードを探す人が多いこと、そして、自分が強くこだわる常識的一般論をいくつも携え、そこに過剰な信頼を寄せている人が多いことだと思います。


過去に手に入れた一般論の中には、時の経過とともに錆びついているものも少なくありません。「昔はそのように言えたけれど、今はその限りではない」というものや、この例のようにその人が思い込んでいる独善的なものが、たくさん含まれていると思います。そのようなものを後生大事に持ち続け、何かというとそこに物事を結び付けて強引に結論付けようとする人が、このような歪な情報処理に走ることになります。


1つの情報に一般論を絡ませれば、それなりのことが喋れてしまいます。そして自分の世界を作ることができます。たくさん一般論を持っている人は、あちらこちらから情報を1つずつ引っ張ってくれば、グループ討議の所要時間くらい楽に埋めることができるでしょう。この例でも、「早期離職の頻発」という情報を引っ張り込んだだけで、採用論というテーマでみんなが長々と語り合える場を作ることができました。お客様が求めているものからは、遥か離れた場所になってしまいましたが。


頭の中が使い勝手の良い一般論で占められていて、それを使いたくて仕方のない人がたくさんいらっしゃることも、「1つの情報に反応する」という深刻な問題を産む要因の1つになっているのかもしれません。自分が信頼を寄せる強大な武器を持っていれば、そこにあらゆる情報を引き寄せたくなるのも無理はありません。でも、その行動が、その人を重要な場所から遠ざけ、その人を孤立させる可能性が大きいことも、知る必要があるでしょう。


自分が持っている「武器」への信頼をほどほどに制御してください。

少し謙虚になり覚悟を決めて、今目の前にある新しい情報に向き合うことへの注力を高めてください。


事あるごとに演繹法の濫用に走る方々に、今私が言いたいのはそれだけです。


優先順位をつけられない


アセスメントの中でこのように本質からどんどん離れていく流れが出来上がるのは珍しいことではありませんし、普段の仕事場や会議で、もしかしたら経営判断が導かれる中で起こっていることなのかもしれません。


1つの情報に反応して動き、思考(概念化)プロセスに進まないことで生じる問題の中で、最も重大で集約的なものが、ここにあります。対象となる物事に真面目に向き合い、そこで得られる情報を精力的に集めて全体像をイメージするに至らないと、その本質の在り場所がわかりません。その労を省いて、1つの情報を取り上げてしまうと、本質から遠く離れた場所で動くことになってしまいます。このことは、このコラムの中で何度も言ってきましたが、本当に大事なことなので、どうぞお許しください。


「仕事に優先順位をつけなさい」


どんな職場でも金科玉条のごとく唱えられているセリフです。新入社員から管理職や経営職まで、誰もが言われている、あるいは言われてきたのではないでしょうか。「すっかり聞き慣れてしまった」という方も多いのではないかと思うのですが、「優先順位をつけなさい」という教えには、実に深い意味があります。


前述の思考(概念化)プロセスの目的は、物事の全体像をイメージしてその本質の在り場所を明らかにした上で、目標設定に向かうことです。物事の本質を睨みながら目標設定に動くことで、その妥当性や合理性が担保されますが、本質の在り場所を知らないまま動き出せば、その行動は「ピント外れ」「ずれている」などと評されることになるでしょう。


対象となる物事のどこに本質があるのか、すなわち「何が大事で何がそうでもないのか」を正しく理解しないで進めた行動は、先ほどの「早期離職」の例のように、本質とは遠く離れた場所で空しく発散される、非生産的なものになってしまいます。


優先順位をつけるための重要な取り組みが「軽重識別」です。文字通り、軽いものと重いものを見極めましょう…ということです。お察しの通り、物事の本質を知るための情報処理を遂行できない人に、軽重識別はかないません。最も重要なものが何かを掴めていない人には、何がそうでもないのかを知る術も持てず、目の前のすべての情報が同じ重さに思えてしまうはずです。そうなってしまったら優先順位を決めることなどできるはずがありません。


どうでもいいことに無駄な時間を使ったかと思えば、大事なことを後回しにして大変なことになる。


仕事の質を見極められないので、他者に仕事を振ることができず、すべて自分で抱え込んで大変なことになる。


自分でどう動くかを決めなくてはいけないマネジメント領域において、本質を知ろうとする取り組みをさぼると、大変なことになってしまうのです。「物事の軽重を正しく識別し適切な優先順位を設定できる人が、仕事ができる人と称されている」それが、世間一般における認識でしょう。そして、それができない人がマネジメント職に就いてしまい、本当に「大変なこと」になるケースが後を絶ちません。


優先順位をつけられないと、困ったことがたくさん起きます。マネジメント職に就いている人であれば、それは致命傷になりかねません。


真面目に業務をこなしているつもりなのに、やるべきことが全然減っていかず、労働時間が嵩んで疲弊する。

→ 部下に仕事が下りていかず、部署内の士気が低下する。


こんな状況が常態化し、そしてその組織は確実に壊れていくのです。こんなことが起こるのは、すべてそのマネージャーが、物事の本質にアプローチする情報処理をサボっているからなのですが、そのメカニズムを理解している方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。


物事の本質から遠い場所で動くことの怖さを、実感を伴う自分事としてきちんと理解しておくことは、とても大切だと思います。優先順位をつけられないことで自分が、そして組織全体がボロボロになる恐怖をイメージできれば、さすがに「楽をしたい」という欲望くらいは制御できるのではないでしょうか。


5-7   まず心を整えないと、思考(概念化)のスタート地点に立つことはできない


好感度と思考力(概念化能力)


「人としての好感度と思考力(概念化能力)とは、まったく別の場所に立つ概念なのだ」 


私は長い間、当たり前のようにそう捉えていました。アセスメントの仕事を始めてしばらくは、「あの人はちょっと嫌な人だけど頭はいいよな」などと何の躊躇も無く心の中で呟くことがあったように思います。今から思うと、あの「頭はいい」と思えた人たちは、思考力(概念化能力)に優れていたわけではなく、学力が高いだけだったのですが。


ところが、アセスメントの仕事を始めて数年が経ち、「思考力(概念化能力)と学力の違い」や「精神的自立」というテーマを掘り下げていく中で、「思考力(概念化能力)の評価が高い人に、心の不安定な人(精神的に自立していない人)はいない」という法則が浮かび上がりました。「精神的に自立しない人は、素直な気持ちで対象に向き合えないから、相手や周囲に違和感や嫌悪感を与えるのだ」という、精神的安定と好感度の因果関係がはっきりしてきたのも、その頃だったと思います。


そして、その後に例外的な事象が出現することも無く、第8回(⑧)で記したように「精神的に自立していることが、思考力(概念化能力)が働く前提である」という、私たちのアセスメントの大前提ができあがって今に至ります。


精神的自立と思考力(概念化能力)との関係が学術的に証明され、世の中において「新常識」と認知されることは考えにくいので、多分どこまで行っても「諸説の1つ」の域を出ることは無いのでしょう。でも、思考(概念化)を働かせる時にあれだけの熱量と集中力が必要であることを知れば知るほど、そこに健全な精神が求められることが当たり前過ぎるように思えてしまいます。


精神的自立についても思考(概念化)についても、私が思うところを十分に述べてきたので、ここであらためて書くことはありません。ただ、「1つの情報に反応する習慣からの脱却に向けた処方箋」の最後には、やはり思考(概念化)を働かせるための大前提を置いておきたいと考えました。


何を置いてもまず心を整えないと、思考(概念化)のスタート地点に立つことはできません!


心が整っていないから、「1つの情報に反応する」という逃げ道を選んでしまうのです。


「いい人」


これまで27年間アセスメントに取り組んできた上での実感として、自信を持って言える1つの結論があります。マネジメント能力に長けた人、すなわち「思考力(概念化能力)の高い人」は、本当に皆さん「いい人」なのです。


もちろん、「何をもっていい人なのか?」という基準を常にはっきりさせておく必要はあります。ここで言う「いい人」とは、「自分のことだけを考えて自分のためだけに動くのではなく、相手や周囲の利害や心情に心を寄せることができる人」のことです。自己防衛行動や自己充足行動の見られない、精神的に自立した人のことですね。


自分の思考力(概念化能力)を活性化させ、マネジメント領域を生産的に動くためには、「いい人」でなければいけない… 力が抜けてしまうような話ですが、これが正論です。


今自分が「いい人」なのかどうかという話は別にして、自分のマネジメント能力を高めたいと真剣に考える方には、今よりも「いい人」になるための注力が求められます。もちろんそれは、無理に愛想の良い自分を取り繕ったり、他者への配慮を示す言葉をただ重ねたりすることではありません。それは、自己防衛行動であり、度が過ぎると人が逃げていきます。


「いい人」になるための注力とは、自分の心を整えることに他なりません。言い換えれば精神的自立の度合いを高めることです。その難しい自己変革への道を開く方法が、「自分の行動を正しく変えていくこと」だけであることは、前述のとおりです。


第10回(⑩)~ 第12回(⑫)の「自己防衛行動を制御する7つのヒント」と「自己充足行動を制御する7つのヒント」は、心を整えるために自己を制御する手立てです。前者では、自分の殻に閉じこもることを防ぐための行動制御を、そして後者では他者に寄り添えるようになるための行動制御を示したつもりです。


すべてを完全に成し遂げることができれば、その人は間違いなく精神的自立を果たしたことになりますが、自己変革がそんなにうまくいくことは無いでしょう。ただ、正しい方向を向いて、正しい行動変革に汗をかいてさえいれば、心は少しずつ整っていきます。


マネジメント能力を高めるためにやるべきことは、知識を積み上げることだけではありません。その知識を生産的に活用するための土台の整備を頑張らないと、せっかく揃えた知識が無駄になります。


今よりもっと「いい人」になるための努力は、いつ始めても遅くはありません。 

                                                   完                                                                     

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