5-3 3秒ルールを徹底すると、驚くほどに相手の姿が見えてくる
みんなが同じことを…そして誰もできない
自動車販売や食料品の営業所で、営業担当の管理職やスタッフを対象にアセスメント研修を実施することがあります。営業のプロ集団だけあって、元気で人当たりの良い受講者が多く、講師としてはとても助かります。いつも偉そうに「愛想笑いや頷き相槌はほどほどにね」などと自己防衛行動を戒めたりしているくせに、受講者の前に立つと、つい「もうちょっと笑ってよね」などと思ってしまう… 我ながら本当に勝手な奴です。
「お客様に受け入れられなくてはいけない」というテーマを大前提に教育を受けてきた彼ら彼女たちからは、随所で底堅い同質性が浮かび上がります。特に面接演習の場面では同様の行動が繰り返されることが多く、何人かが過ぎたところで頭がくらっとすることがあります。来る人来る人から同じものを見せられると、頭が混乱して悲鳴を上げるのですね。アセッサーあるあるかもしれません。
面接演習の中で、受講者の説得を受ける部下役は、自分がその説得に応じられない理由を一生懸命伝えようとします。ここで頑張ってわかってもらわないと、自分にとっての大きな不利益を被ることになるからです。
部下役「…(結構長いセリフ)…、だから私には無理なので、その話はお受けできないんです」
受講者「(間髪入れず)無理だと思われているのですね。このお話を受けていただくのは難しいということですね」
このように「相手の話したことの1部分を切り取って、そのまま投げ返す」という不毛な反応行動が繰り返され、そのたびに部下役は「だから今そう言ったじゃん」と心の中で呟くことになります。切り取られるところは人によってそれぞれですが、話の終りの方で発信されたわかりやすい一言を使う人が多いですね。言われたばかりの言葉の方が記憶に新しいからでしょう。
こういうことになってしまう原因は、多分過去に行われた何らかの「対人スキル教育」にあるのだと思います。各種カウンセラーの育成教育などでも必ず教えられることなのですが、相手の話を受けて言葉を返す際には、次のようなプロセスが求められるのです。
相手の話を傾聴する
→ 相手が話し終わったら、相手の話を要約して示してあげる
これによって、自分が理解したことを相手に伝えることができ、相手を安心させてあげられるからです。素晴らしいことだと思います。ただ問題なのは、それを教えられた人たちの多くに「要約」を実践するパワーが不足し、相手の発した1つの言葉をそのまま投げ返す…という体たらくに陥っていることです。これをやられた相手は、間違いなく悲しい気持ちになるでしょう。「馬鹿にされてる?」という不穏な感情を抱く人がいても、おかしくありません。
対人生産性を高める教育を提供する業界の人々にとって、これは永遠のテーマであるはずです。この問題を感じ取っている人は、たくさんいらっしゃるのでしょう。もちろん、「要約に必要な思考力(概念化能力)を持たない人が多い」という問題が浮かび上がってはいるのですが、その能力を使いにくくなっている環境的要因についても少し考えてみる必要があると思います。
無理筋
営業所での研修に限らずすべてのアセスメント研修において、面接演習では部下役が話し終えるとすぐに口を開こうとする人が圧倒的多数となります。「遅滞や停滞の無い言葉のキャッチボール」が美しいものであり目指すべきものであると、信じている人が多いのでしょう。その信仰が、「相手の話が終わったら間を作ってはいけない」という強迫観念のようなものを産み出しているのだと思います。もちろん、我が国に無意味なスピード礼賛が未だに残っていることも原因の1つでしょう。
「要約したものを示しなさい」という教えを誠実に守ろうとしている人が、一方で「相手が話し終わったらすぐに口を開かなきゃ」という観念に縛られているとしたら、物理的にミスマッチが生じますよね。すぐに持ち出せるキーワードを掴みに行こうとするのも無理はありません。
ここで言う「要約」は、単に言葉の要約という意味ではなく、相手の意図や欲求をどう理解したかを示すことが求められています。それでなくては、相手の心理的満足を得られないからです。そのためには、相手が発した言葉だけでなく、表情を始めとする非言語情報も処理されなくてはなりません。その情報処理は、まさにここまで繰り返し言及してきた「マネジメント領域における目標設定プロセス」そのものです。
「相手の1つの言葉に反応することなく、相手からの情報をたくさん集めて相手の正体(人間像)を浮かび上がらせ、その本質(相手の考えと欲求)を知った上で目標設定する(働きかける)」 あの図…そのままではありませんか。
この骨の折れる情報処理を、相手の話が終わって1秒にも満たない間に完了させろと言われても、それは明らかに無理筋というものでしょう。「相手の話を要約して示してあげなさい」という教え自体には合理性があるのですから、そこにこんなもう一言足してあげた方が良いのではないでしょうか。
「相手の発した情報にしっかり向き合い、相手の言いたいことや相手がして欲しいことを理解してから口を開きなさい。少し時間がかかってもいいから。少し間ができてしまっても構わないから…」
「すぐに言葉を返さなければ」という呪縛
多くの人が、「相手が話し終わったらすぐに言葉を返さなければいけない!」という呪縛に囚われていて、アセスメントで面接演習に臨む人の大半に、程度の差こそあれその傾向が見られます。言うまでも無く、そこに縛られているうちは相手の話に向き合えません。即応に備えて相手が話している時間を次の自分の発信の準備に使わなければならないからです。自分の準備に忙しくて傾聴に注力できないから、相手の言葉をひとつ抜き取ることでお茶を濁すのが精一杯になるのです。
面接演習で相手が発する情報に真正面から向き合い、思考(概念化)を深めるあまり次の言葉が出てくるまでに時間がかかって会話を停滞させるような方が、時々出現します。相手からの情報をしっかり受け入れることを優先したことで、次の自分の起動が遅れる… これは当たり前のことであり、そして素晴らしいことです。
そのような方々は、「相手の話を聴く→その情報を取り込んで思考(概念化)を深め葛藤状態に入る→目標設定までに時間がかかる」というプロセスを繰り返し、そして時に考え込み、言葉は途切れ、場は停滞します。
対人場面の重要度や深刻さが増せば増すほど、このような形になるのが健全だと思いませんか? 例えば上司に悩みを相談した部下は、一緒に一生懸命考えてくれる上司や一緒に悩んでくれる上司に信頼を抱くでしょう。悩みを伝え終わった瞬間に上司の言葉が飛んできたら、一刻も早くその場を去りたくなるのではないでしょうか。
私たちアセッサーは、そんな重苦しい時間を過ごす受講者を目にする度に、対人場面というのはこうあるべきものだな…と感じ入ります。しかしながら、そんな方々に後から感想を伺うと、ほぼ例外なく「だめでした」という返事が返ってきます。
「なぜダメなのですか?」
「私が会話を途切れさせてしまったので」
本当に「漏れなく」と言っていいほど、このような会話になるのです。あれだけ相手を満たしてあげられる生産性の高い対人場面を創出した人までが、「会話は隙間が空かないように進めなくてはいけないのだよ」という通念に縛られている… 構造的な問題があるように思えてなりません。
3秒ルールを徹底してください
私は第4章で触れたように、「相手が話し終わってから自分が口を開くまで、最低3秒は時間を取りましょう」という、対人場面の3秒ルールを提唱しています。「3秒」と言っていますが、別に5秒でも10秒でもあるいはそれ以上でも構いません。とにかく、「すぐに口を開く」という行動を制御することが狙いであり、「3秒空けなくてはいけない」という意識が「すぐにしゃべらなくてもいい」という精神的開放に繋がることに意味があります。
そうなればその時間は徐々に長くなっていくはずです。思考(概念化)にはそれなりの時間が必要なのですから。ちなみに、その時間が多少長くなっても、会話が間延びすることはありません。言葉は発していなくても、その人が自己投入を深めている時の熱量は、必ず相手に伝わるからです。
私が社会に出た頃から今に至るまで、社会全体にスマートで迅速なコミュニケーションを奨励する流れがあるように思います。そして、そこに対応する数々の教育訓練システムがあります。ロールプレイングなどもその1つでしょう。「相手にじっくりと向き合う」という対人場面で最も重要なことが、それらのシステムによって脇に置かれてしまうことの無いよう、どんな場面でも3秒ルールだけは持ち込まれるようになって欲しいと思います。
3秒ルールを徹底させることによって対人場面における情報交換が強化され、感情交流が生まれるとともに相手の正体(全貌)が見えてきます。コミュニケーションを取る中で最も重要なことなので、くれぐれも本当に「徹底」させてください。そうすれば、相手の1つの言葉に反応していたのでは絶対に近づくことができない、新たな世界が見えてきます。
もちろん、「要約して示してあげる」ことも、きっとできるようになります。
5-4 根拠への意識づけを強化すれば、本能的欲望は制御される
アセッサー養成講座で鍛えられる社内アセッサー
私たちは、採用アセスメントの内製化を支援しています。顧客企業様にアセスメントセンターを使った採用選考のしくみを提供し、社内でアセッサーを養成します。そして10回の実践講座を終える頃には、私たちプロアセッサーがいなくても、独自で採用アセスメントを運営できるようになります。
アセスメントセンターは、熟練の評価者(アセッサー)が存在することによって成り立ちます。アセッサーは少し特殊な仕事で、相当数のアセスメントを経験し、相当数のアセッシー(被験者)を分析して、安定したアセスメントを維持できるようにならないとプロアセッサーになれません。日常の業務を持つ社員の方々に、そんな大変なことをお願いするのは本当に申し訳ない話だと思います。でも、費用を気にせず妥協の無い採用選考を貫いていただくには「内製化」しか手立てが無いので、今まで実にたくさんの社内アセッサーの方々に頑張っていただいてきました。
社内アセッサーは、採用アセスメントを通過して入社した方にお願いするか、社内アセスメントで選ばれることになります。「アセスメントで高い評価を得る人=マネジメント能力の高い人=アセッサー適性の高い人」なので、アセスメントで選ばれた社内アセッサーは、漏れなくアセッサー養成に適応して戦力化に至ります。
アセッサー養成講座に臨んでいただくメンバーは、少なくても思考(概念化)のスタート地点には立てることが確認されている人たちであり、「1つの情報に反応して動く」という習慣は持たないはずの人たちです。しかしながら、「会社の門番」という重責を担う精鋭たちも、順調に気持ちよくアセッサーに育っていくわけではありません。思考(概念化)教育とも言えるアセッサー養成教育の厳しさに戸惑い、時に情報処理の乱れを見せてくれることもあります。そういった「乱れ」を1つ1つ私に指摘され、修正を重ねるうちに、成熟したマネジメント能力を携える「セミプロ」のアセッサーが誕生するのです。
ここでは、その「乱れ」の代表的なものを1つご紹介しましょう。
論理誤差
被験者が見せた1つの行動に強く反応して「この人はこういう人だ」というストーリーを作ってしまい、その後の行動をすべてそのストーリーに巻き込んでいくことで、その人本来の性格や能力とは離れた「誤った評価」を仕上げてしまうことを論理誤差と言います。簡単に言えば、「思い込み」や「決めつけ」のことです。
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他者の意見を受けたAさんが、「そうは言っても…」と話し始めました。それを見たアセッサーが、「Aさんは他者の意見を否定的に受ける人だ」と捉え、「自己防衛行動を示すAさんは、精神的に自立しない人である」というストーリーを作りました。
グループ討議の開始早々、口火を切って発言した人に対してBさんは、とても大きく何度も頷きました。それを見たアセッサーが、「Bさんは、他のメンバーから良く思われたいのか過剰な反応をする人だ」と感じ、やはり「自己防衛行動を示すBさんは、精神的に自立しない人である」というストーリーを作りました。
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両方ともアセッサー初心者によくあるケースです。こうなってしまうと、その後にAさんやBさんが何をしても自己防衛行動のようにみえてしまい、「精神的に自立しない人である」という評価はどんどん固められて、覆ることはありません。
他者の意見を受けて否定的に言葉を返してしまったAさんは、たまたま、絶対に承服できない意見を耳にしてしまったのかもしれません。こんな間違った話にはここでしっかり反論しておかなければ…! と、思い切って起動したのかもしれません。そしてその後は、目くじらを立てるような自己防衛行動を見せなかったのかもしれません。
他者の意見に対して大きく何度も頷いたBさんは、たまたまその人の意見に本当に感銘を受けたのかもしれません。そしてその後は、社会的儀礼の範囲内で、誰でも見せるような普通の相槌を打っていたのかもしれません。
現実的に、1度自己防衛行動が出現すると、その後も様々な自己防衛行動が繰り返されることが多いのは事実です。しかし上述のように、「たまたま」1回だけ強く自己防衛行動らしきものが示されることもあります。それが、その人が持つ何らかの事情や背景に押し出されて生まれた行動であった場合、その行動を自己防衛行動と見做すことはできません。
プロアセッサーや経験の豊富な社内アセッサーは、開始早々に1つの自己防衛行動らしきものを目にしても、観察用紙に「自己防衛行動」とは記しません。「たまたま」である可能性を考慮し、「自己防衛行動?」と書いておきます。そのような心持ちに留めておくと、もしその後に自己防衛行動が繰り返されなかった場合には、「たまたまだったのだな」という判断に切り替えて、「自己防衛行動?」の記述を消すことができるのです。
ところが、1つの行動を目にしただけで、「精神的に自立しない人である」というストーリーを固めてしまったアセッサーは、その後に何があってもそのストーリーを破棄することはできません。論理誤差は、どんどん踏み固められていきます。
アセスメントで選ばれた、1つの情報に飛びつくことなど無いはずの社内アセッサーでも、慣れない行動分析を託されて不安が募る中、アセスメントに使える行動を1つ捕まえるとほっとするのでしょう。その後に控えるアセッサーミーティングできちんとしたことが言えるように、早く評価を固めておきたくなるのでしょう。そんな感情の揺れが、その人を論理誤差へと走らせるのだと思います。
アセッサー養成講座で学ばれた生徒さんのほぼ全員が、論理誤差を経験しています。いわば通過儀礼のようなものです。私に論理誤差を指摘されて不服そうな顔をする人はいません。誰もが一様に、「言われてみれば本当にそうだ」「なぜそんな方向に走ってしまったのだろう」というような狐につままれた表情を見せてくれます。「魔が差してしまった」ということなのでしょう。そして、それを「やってはいけないこと」と強く意識に刻み込むことで、皆さんはアセッサーとしての成熟度を増していくのです。
根拠への意識づけ
人間は本能的に「できれば楽をしたい」と願っています。論理誤差を招く「1つの情報に反応する」という行動は、本能行動なのでしょう。志の高い社内アセッサーの皆さんは、それを制御することで思考力(概念化能力)を活性化させていくわけですが、制御を維持するためにはある程度の継続的な意識づけが必要です。「1つの情報に反応すると、困ったことになるんだ」という刺激が重ねられると、自分の中で制御の必然性が高まります。
実践講座のアセッサーミーティングで、生徒さんは常に「根拠」を意識することが求められます。「精神的自立が怪しいと思います」と言うのであれば、その根拠となる自己防衛行動や自己充足行動を提示しなくてはなりません。そこで根拠が示されないか、あるいは先ほどの例のように1つの自己防衛行動だけを示したりすると、私に根拠不足を指摘されて「やり直し」となります。「その情報処理が人の人生を左右するのだから、常に十分な根拠を携えたアセスメントを心がけてください」という私のセリフと共に、養成講座は進んでいきます。
被験者の能力に言及する際には、根拠として複数の行動情報の提示が求められます。何らかの能力傾向を示す1つの行動が何度も繰り返されたか、あるいは、同じ傾向を映すいくつかの行動が見られたか、そんな場合に限って「根拠が整った」と見做されます。アセッサーが好き嫌いや好感度を語ることも大いに奨励されていますが、その際には、「何を見て(聞いて)そう感じたのか」を必ず添えなくてはなりません。アセッサーの「感覚」も、遡ってその根拠を提示できれば、立派な行動情報になります。
そんなことを繰り返していくうちに、みんなが語るアセスメント評価には、たくさんの根拠が伴うようになります、「1つの情報に反応する」という本能行動に対して強烈な制御がかかっているので、もう論理誤差は生まれません。
私の知り合いの中には、常日頃から部下に根拠を求めている人間が多いのですが、その中でも特に熱心な友人がいて、彼は部下の思考力を高めたいと躍起になっています。数年前から部下から企画や提案が出されると、必ずその根拠を問い詰めるそうですが、「あいつが、その話をどれくらい温めていたのかを知りたいんだよね」と彼は言っていました。思い付きの軽い話なのか、それともあいつの本当の思いが乗っかっているのか… 根拠を聞けばわかるような気がするんだよ」
先日彼の会社でその部下に会うと、「さっきまた根拠詰めをやられましたぁ」と茶目っ気たっぷりに訴えてくれました。彼の顔を見ていれば、上司に根拠を求められる日々がそんなに嫌でないことがわかります。多分彼も上司の気持ちをわかっているのだと思います。そして、少しずつ良くなっている自分を感じているのではないでしょうか。
2人を見ていると、羨ましいなあと思います。思えば私も三十年位前に管理職だったころ、部下が何か意見を言うと必ず根拠を求めていました。自分なりに、部下の能力を高めてあげたいという気持ちがあったのだとは思いますが、果たして彼のように根拠を求める根拠をちゃんと持っていたのか、そしてそれが部下のためになっていたのか、少し不安な部分もあります。今、アセッサー養成の生徒さんに提供しているような思考(概念化)教育を、あの頃の若い部下たちにもやってあげたかったなあ… と、時々思います。
根拠を求める必要のないこともありますし、状況証拠が優先されることもあるでしょう。相手への支配や攻撃を図って「根拠は?」を繰り返すなら、それは自己防衛行動ですし、「ものの言い方」の問題もデリケートです。したがって「部下には根拠を求めてください」と誰にでも安易に推奨することはできません。ただ、部下が出してきた自説が何に立脚しているのかを知ろうとすること、そして部下の情報処理を合理的でふくよかなものに高めてあげようとすることは、絶対に間違っていないと思います。
社内アセッサーの皆さんは、根拠への意識づけを強化することで、論理誤差に向かおうとする本能的欲望を制御しています。このやり方が、世の中にもっと広まらないものでしょうか。
必要に応じて、上司が部下に根拠の提示を求めるようにすること、そして自分自身が何か新しいことを発信しようとする時には、必ず根拠を整備すること。
これが今より少しだけでも一般的な取り組みになれば、「1つの情報に反応する」という我が国の悪しき文化は、必ず薄れていくはずなのですが。
> ⑮ へ続く