今回のコラムは、はっきり言って「長い!」「読みにくいかも…」です。内容は、「世の中の経営者の皆さんに、私が今、あらためて伝えておきたい大事なこと」なのですが、決して面白おかしいものではありません。お時間のある時、そして体調の良い時(?)に、覗いていただけると嬉しいです。
変わってしまったアセスメント現場の景色
その昔、私は某人間科学系コンサルティング会社のプロアセッサーとしてデビューしましたが、その頃のアセッシー(アセスメントを受ける方)のほとんどが、大手と呼ばれる会社の管理職かその予備軍の方々でした。
年齢的には当時の私とあまり変わらない人たちだったはずなのですが、「来る日も来る日も立派そうな方々にびびりながらアセスメントしていたなぁ」という記憶しかありません。ひよっこアセッサーだった私は、大手の看板を背負う皆さんの貫録とはったり(?)にしっかり気圧されていたのでしょうか。
あれから25年が経ちましたが、今も私はあの頃と同じように、顧客企業の管理職や監督職諸氏をアセスメントする日々を送っています。コロナ禍までは採用アセスメントの仕事が主流になっていましたが、ここ数年、原点回帰を謳ったマーケティングを頑張ってみたところ、昨年あたりから顧客企業の社員さんをアセスメントしてマネジメント適性を診断する仕事がだいぶ戻ってきました。
アセスメントの対象となる方々の役職や年齢は25年前と変わっていませんが、私の目に映る景色はあの頃と別物のように感じられます。管理職然とした人が少なくなり、そのような人の周囲に生まれる重厚感と安心感に触れることもなくなりました。あの頃のように「偉い人オーラ」に身構えることもなく、良くも悪くも心静かにアセスメントに取り組んでいます。
自分が歳を重ねて経験を積んだからそう感じるのでは…という部分はもちろん否定できませんが、でも、決してそれだけではありません。最近私がいつも感じることを集約するとこうなります。
「みんな、子供っぽいなぁ…」
いかなる場面でも躊躇なく作業領域を選択する管理職
誰もが名前を知っているような大企業でも、管理職が数人しかいない小規模企業でも、私の印象は同じです。自分が変わったことによる相対的な感覚ではなく、多分皆さんの取り組みや行動の質が、間違いなくあの頃とは違うのです。「昔は良かったなぁ」などという懐古主義に留まるレベルの話ではなく、実はかなり深刻な構造的問題なのではないかという気がします。
前にコラムで、「インターンに臨む大学生のほとんどが、同じ間違いを犯します」「明らかに間違った方向に注力するのです」と書きました。でもそれは何も若者に限ったことではなく、世の部長さん課長さんたちの同質性の高さもかなりのものです。
アセスメントでは、「自分がどのくらい頑張るか」を自分で決めなくてはいけない場面が次々と訪れます。必要最小限の労力でやり過ごすか、仕事の質を高めるために困難を厭わずに注力するか…が、各自の選択に委ねられるのですがほとんどの人が前者を選択するという現状が、私は歯痒くて仕方がありません。インターンに臨む学生さんたちとまったく同じ構造になっていて、ちょっと衝撃的です。
仕事は、作業領域とマネジメント領域とに大別されます。身に付けた経験や知識を使って粛々と定型業務を進めることができる既知の世界が作業領域で、経験や知識をそのまま持ち込めない未知の世界がマネジメント領域です。
「こういう時はこうすれば…」「ああいう場面ではこの方法で…」というように、知っていることをそのまま当てはめることができる作業領域は、知っていることが多い人にはとても楽ちんで快適な世界です。そしてここで軽やかに動ける人が、仕事ができる人とみなされているという現実もあります。
一方、マネジメント領域には既存の答えが存在しないので、その場でその時に得られる情報を複合的に処理して、自らが自らの進む道を決めなくてはなりません。
不確実性が増すばかりの今の時代、作業領域は確実に縮小傾向にあって、マネジメント職のみならず実務者の前にもマネジメント領域が広がるようになってきました。もちろん、管理職には、マネジメント領域で動くことが責務として求められます。
それなのに、アセスメントに取り組む管理職とその予備軍の皆さんは、あらゆる場面で何の躊躇も無く作業領域を選択するのです。これは本当に由々しき事態です。具体的にどんな選択に走るのかと言うと…
▸ 新しい事象や課題が提示され、それに関わるたくさんの情報が提供されているのに、それらの情報を積み上げて物事の全体像を把握しようとすることなく、その中のたった一つの情報に反応して拙速的に答えを出そうとする。
▸ 対人場面で、「相手が発する多様な情報に向き合って、相手の本意や本質を知ろうとする」という方向には舵を切らず、相手の言葉一つに反応して安易な働きかけに走る。
▸ 日常的な業務スタイルが反映されるインバスケット演習(メール演習)では、マネジメントの主体者という設定なのに、関係者の個々の依頼に反応して実務的な手続きに追われ、課題形成や問題解決に向かう意識を見せない。
責任を背負わず楽な選択に走る上級実務者たち
これらの選択には、「思考したくない」という共通の潜在意識が絡んでいます。「そんなしんどいことをする気にならない」ということなのでしょうか。
人は利他的に動こうとする時でないと、頑張りが利きません。「誰かのために」「誰かに対する責任を背負って」というような状況にならないと、自分の心身に負荷をかけてまで思考のようなしんどい取り組みを敢えて選択し、粘り強く取り組むことにはならないものです。
思考したくないから安易な選択に走る人たちは「できれば楽をしたい」という本能的欲求に従っているだけなのですが、その責任を背負わない風情が、「子供っぽく」見えるのでしょう。
アセスメントは、日頃の業務スタイルや取り組みのハードルを如実に映します。管理職でありながらアセスメントの場で作業領域から一歩も外に出ようとしない人は、日常の仕事場でも、マネジメント領域には立ち入ろうとせず、かろうじて「上級実務者」としての存在意義を示しているのではないでしょうか。
企業の業種や規模に関係無く、今の管理職の中では、「経験や知識に依存して決められたレールの上を走るだけの人たち」がボリュームゾーンとなっていることに、もはや疑いの余地はありません。その中にせめて1人か2人の「自力で新たな価値を創出できる人」が混ざっていないと、間違いなくその組織は停滞します。
マネジメントをさぼる管理職には、いかなる場合も正当性はないのだが
マネジメントへの注力を避けようとする人たちの気持ちも、わからないではありません。
管理職になったとたん業務量ばかり増えて給料はそれほど増えないし、部下を指導しようにも、「ハラハラ」とやかましい中、部下とどう接してどこまでいえばよいかわからん…
確かにモチベーションが上がりにくい状況が揃っています。
そんな中で、「働きかた改革」「タイパ」などという概念が幅を利かすようになると、そんな空気を後ろ盾にして出力の上がらない自分たちを正当化したくなるのも無理はないような…気もします。
とは言っても、管理職がマネジメントの仕事を避けるのは、やはり単なる怠慢に過ぎません。不当に業務上の量的負担を求めることは許されない今ですが、会社が社員に質の高い仕事を求めることには何の問題もないのです。そしてそれが役割であれば尚更です。どんな言い訳が用意されようと、マネジメント職がマネジメントの仕事をさぼることに、いかなる場合も正当性はありません。
多くの管理職やその予備軍が、自分たちの本来の責務から逃げようとする風潮は決して看過すべきものでは無く、社会問題と言っても大げさではないと思います。
多くの仕事人の中で能力や精神性の劣化が進んでいるのか、あるいはその人たちを取り巻く環境や背景が間違った方向に進んでいるのか…、もしかしたらその両方なのかもしれません。
巨視的な問題解決を図ろうとすると、思考の文化を醸成できない今の教育を変えるとか、わが国特有のプレイングマネージャーの概念を撤廃するとか、そんな大それたことになってしまいます。本当はいつか誰かがそこに手をつけなくてはならないわけで、私たちもその改革の一端を担いたいものだ、といつも考えてはいるのですが…、現実は厳しいですね。
会社のマネジメント観を社員に伝えることで、何かが少し変わるかも…
構造改革が容易でないなら、せめて自分の会社だけは守れるよう、その手立を考えましょう。
前述のような「マネジメントの取り組みに舵を切らない人」の多くは「やりたくない人」なのですが、中には「やりたいけどやり方がわからない人」も存在します。アセスメント研修では、「頑張りたい」と思っていながら「実務者から管理職になったはいいけど、何をどう変えていいのかわからない」「どこを頑張ればよいのかがわからない」と悩む真面目な人が、必ずと言っていいほど浮かび上がります。
そんな人たちに「マネジメント職が本来取り組まなくてはいけないこと」や「マネジメント職に求められる情報処理」などを体系的に伝えると、憑き物が落ちたような表情を見せてくれる人がいます。インターンでうっすら涙を浮かべていたあの大学生たち(コラム「学生たちの思考を蘇生させる機会」参照)にも見られた、困惑と安堵が入り混じった表情です。
管理職になる人に、「管理職には何よりもマネジメントを求めている」ということを、具体的なミッションと共にはっきりと伝えている会社は、実はそれほど多くありません。その結果、道に迷った管理職が大量に発生することになり、その人たちは頑張りどころを間違えて、本質から遠く離れたところでバタバタと動くようになります。
伝えるべきことをしっかり伝えても、「やりたくない人」を変えることはできません。でも、「わからない人」はそれによって救われます。そして、きっとその中から劇的にマネジメントに目覚める人が出てきます。「やりたくてもできない人」を「やりたくない人」の群れの中から引っ張り上げるために、自分の会社のマネジメント観をもっともっと社員に伝えることが、日本中の経営者に求められているのではないでしょうか。
世の中に蔓延る「マネジメント能力に向き合わない管理職登用」
そして何よりも大事なことは、「管理職人事は、当該社員のマネジメント適性に向き合った上で決定されるべき」という当たり前の原理原則に立ち返ることです。「いつでも当たり前のようにマネジメント領域を選択し、そこで正しく動ける人」、すなわち「マネジメント能力を備えている人」だけを管理職に登用しようと努力を重ねている企業が、今、どれだけあるのでしょうか。
「実務で成果を出した人」「高学歴の人」「アピール上手の目立つ人」などを無防備に管理職に押し上げてしまうことで、マネジメント適性に著しく欠ける「マネジメントをやりたくない管理職」が量産されます。
マネジメント能力(適性)に欠ける人の多くは、マネジメント領域で動く意識や技量の前提となる精神的成熟度や価値観に何らかの問題があります。その人の中で長年にわたり積みあがったものが今後変わっていく可能性は、残念ながら高くありません。だからこそ、管理職の選考には慎重の上にも慎重を期す必要があります。
マネジメント適性の低い管理職が示す「やりたくない」という行動選択の特性は、日常的なマネジメント機能不全や問題行動の端緒となるものです。そんな人を管理職に据えることのリスクがいかに大きいか、もっと広く正しく認識されることを願ってやみません。
社会通念や通例に囚われず「若い適材」を発掘し登用する意味と意義
さて、不幸にして管理職に「そんな人」が揃ってしまった場合、経営者はどんな手を打って状況の改善を図るべきなのでしょうか。
「問題の大きい管理職から、配置転換や降格人事に踏み切ればいい」と言うのは簡単ですが、少なくても「上級実務者」として業務の流れに深く組み込まれている人をすぐに動かすというのは、あまり現実的ではありません。
適性の低い人をマネジメント職に置くことによって生じる最も深刻なリスクが、「部下を潰してしまう」「部下が辞めてしまう」というものです。何を置いてもそんな事態になることだけは避けたいので、せめて「人を壊してしまうリスクの大きい管理職には、部下を外して部下無し管理職になってもらう」ということくらいは敢行して欲しいものですが、「諸々の事情から、なかなか難しい」と考える経営者が多いようです。そもそも管理職の中に適材がいないのですから、一人を動かしても、「後をどうする?」という話になってしまうのですが。
既得権益を得た人たちを動かすのが難しければ、残るは「新しい風を吹き込む」という方法しかありません。
人の仕事力は、成人する頃にはほぼ確立されます。もちろんマネジメント能力も同様です。マネジメント能力を備える新入社員は、「自分で考え自分で動ける奴」「気が利く奴」などと称され、上司や周囲から高評価を得ることになります。もちろんその時点で、マネジメント適性が認められます。
高いマネジメント能力を備える入社5年目は、マネジメント能力に欠ける入社20年目よりも、間違いなくマネジメント職として機能するはずです。にもかかわらず、わが国の経営現場で、経験知よりもマネジメント能力に向き合って社員の早期登用を推進しようとする機運がなかなか高まらないのはなぜなのでしょう。
マネジメント職として必要最低限の経験知がどのくらいなのかは業種や職種によって異なると思いますが、そのあたりを何とか折り合わせ通念の殻を打ち破ることで、膠着した組織に風穴があきます。
「うちの管理職は管理職の仕事ができない」と嘆く社長さん方に、私は「社内の若手から適材を見つけましょう」と提案し続けてきました。そして、入社数年目の若手社員の中から、「実はまったく問題なく管理職を張れる人」を見つけてきました。
「管理職らしい管理職がいない」と思われていた会社でも、その現場には、必ずと言っていいほど陽の当たらない若き逸材が埋もれています。やはり「管理職選びがあまりにも間違っている」ということなのでしょうか。それとも在籍が長くなるうちに、潜在能力が劣化してしまうのでしょうか。
「マネジメントをやりたくない」集団にマネジメント適性の高い若者を投入すると、始めは多少の化学反応が起こります。でも、当たり前のようにマネジメント領域を選択する人材が2人3人と増えていくにつれて、明らかにみんなの選択ハードルが少しずつ上がってきます。
その変化は、前述の「やりたくてもできない人」も救います。マネジメント職として機能しない人の中には、心や価値観に大きな問題があって良い方向に変わっていくのが難しい人と、「やりたくてもやり方がわからない 人」のように外的要因によって黒にも白にもなり得る人がいますが、白いパワーの投入によって、後者のような「グレー」の人が徐々に白く変わっていった組織を、私はこれまで何度もみてきました。
通例を破って若い適材を管理職に登用すると、驚くほど多方面に好影響が及びます。冒頭で述べたような現状を鑑みると、ほとんどの会社の経営者が、その取り組みへの注力を高めるべき時期を迎えているのではないでしょうか。特に中小企業は、待ったなしだと思います。
目立たない逸材に光を当てる
作業領域を主戦場とする実務者の仕事ぶりを見て、その人のマネジメント能力を推し量ることは、決して簡単なことではありません。作業領域だけに留まって成果を獲得できる業務も少なくありませんし、「実績を挙げた」とは言っても、「そのひと個人の力量がどれくらいそこに反映されていたのかは微妙」ということはよくあります。
「真面目」という評価についても、近くでその人の行動を追い続けなければ、本当のところはわかりません。「上の人」の覚えは良くても、実は近いところで仕事をしている人のストレス源になっている…などというのは、よくある話です。そもそも本質を見抜けるほど実務者の仕事をよく観ている経営者が、それほどいらっしゃるわけではありません。
かくして多くの会社で、「目立つ実務者が当たり前のようにマネジメント職に登用される」という人事が繰り返されます。そして、その中の一定数が、機能不全の管理職として周りの人たちや経営者を悩ませることになるのです。
私の経験上、現場で黙々と頑張る社員の中にも、マネジメント適性の高い人は必ず存在します。そんな人に光を当てる機会を数多く作ることができるしくみが、これからの経営人事に求められるのではないでしょうか。私たちのアセスメントも、そのしくみの一つです。
今、わが国の管理職のほとんどが、実務者の延長線上で仕事をしています。「組織を任されているから」「部下がいるから」といっても、組織運営や部下への対応の中で、頭を使って独力での目標設定を果たせなければ、やっていることは作業です。
そんな人ばかりが管理職をやっている会社をたくさん見てきましたが、その会社がすぐに潰れてしまうわけではありません。「管理職もどき」しかいないのに、それなりにうまく行っているように見える会社もたくさんあります。でもそれは、昔その会社が得た推進力の貯金を使って惰性で走っているに過ぎません。だからその状態を放置すれば、いつか必ずその会社は「停止」します。
今、世の中にマネジメント適性のある人材が極めて少なくなっているのでは…という仮説は、多分正しいのでしょう。そしてそんな中で、更に「管理職が正しく選ばれていない」という現実があります。
経営者が人事で注力すべきこととは何なのか…
その正解が、もっと多くの経営者の中で共有されてもよいはずです。