採用アセスメントをやり続けてわかったこと

大量選考母集団型採用アセスメントの誕生

今日も採用アセスメントをやってきました。最近、新卒採用の時期がばらけて繁忙期というものが無くなってきましたが、それでも今の時期は大勢の大学生と向き合う日々が続きます。


私たちが採用アセスメントを今の形で実施するようになったのは、今から15年前でした。


創業から2009年くらいまでの採用アセスメントでは、すべての応募者に3時間以上かけて3つの演習をやってもらっていましたが、導入障壁が高くてあまり売れませんでした。「応募者全員にこれだけの時間とお金をかける必要がある?」「面接演習のように強いストレスがかかる演習を誰かれ構わずやらせてしまって大丈夫なの?」という葛藤が私の中にもあったのを覚えています。


「あのアセスメントセンターを採用選考に使うんだよ!」といくら吠えられても、そう簡単に「1人の選考に10万円以上も使う」という選択に舵を切るわけにはいきません。その頃の採用アセスメントは、「幹部候補の中途採用」などの極めて重要な時にだけ使われる秘密兵器のような存在であり、決して通常の採用選考プロセスに組み込まれるような性格のものではありませんでした。


2010年になり、一部のお客様から「採用アセスメントを新卒採用に使えないか」というお問い合わせをいただくようになりました。モンスター社員という新語が世の中に根付き、新卒の早期離職率の高まりに企業経営者や採用責任者が神経をすり減らしていた頃でした。


たくさんの応募者を対象とする採用アセスメントが求められたことで、「まずグループ討議をやってもらい(1次選考)、そこで生産性を示し選考を通過した人だけに面接演習とインバスケット(2次選考)へと進んでもらう」という、現行の形ができあがったのです。


多くの応募者を効率的にアセスメントできるようになり、1人あたりの料金が安くなったこともあって、それ以降、私たちがアセスメントする人の数は劇的に増えました。業種や企業規模の大小を問わず多様な会社で実施を積み上げ、サンプルが著しく拡充されたことで、徐々にわが国の就活生の傾向というものをイメージできるようになってきました。



多くの学生がこんな風になります

その「傾向」にも、時代によって少しずつ変化があります。例えば以前は、周囲からの見られ方を気にして理想の自分を演じることに汗をかく学生が非常に多かったのですが、そんなことにエネルギーを使うのも嫌になってきたのか、その種の派手な言動を見せる学生は年々少しずつ減ってきています。


それに代わって、ここ数年は、少なくても半分以上の学生が「人に興味を持たない」とアセスメントされるようになりました。就活マニュアルを意識してか人の方に顔と身体を向け、愛想良く相槌を打ちはするものの、実はその人やその人の言うことに興味を抱くことはなく、その人から情報をいただこうという欲望がまったく見えません。人だけではなく、すべてのものに対して向き合う熱量が著しく低下している…、と言うべきかもしれませんね。


そんな中で、この15年間ずっと変わることなく私たちが見せられている「困った取り組み」があります。どのグループ討議でもその誤りを犯す学生が多数派を占め、その様子が見られなかった会は今まで一度もありません。


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与えられた情報(経営上の問題が書かれたもので、結構文字数は多い)をちゃんと読まない。情報を繋げて内容を理解しようとせず、目立つ言葉(キーワード)だけを拾って、そこに絡めていろいろと言おうとする。課題の全体像にアプローチすることなく自分が勝手に選んだ「ひとつの部分」に執着し、課題の本質から遠いところで生産性の低い発信を繰り返すことになる。
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受験テクニックの影響もあるのだと思いますが、当たり前のようにこのスタイルを選択する学生ばかりなのが不思議です。このような学生たちの言い分は「大事なところを押さえて読みました!」なのですが、全体を見ずして、どうやってその本質の在り場所を知ることができるのでしょうか。彼ら彼女たちが飛びついた情報は、「大事なところ」ではなく「目についたところ」に過ぎません。課題の内容を理解しようとしない人たちによる議論は、時間が経つにつれて話題がどんどん課題から離れていき、むなしく時間が浪費されます。


この情報処理は、おそらく多くの学生にとってスタンダードになっているのでしょう。しかし本物の思考力を持つ人がそんな読み方に走ることは、決してありません。思考の習慣を持つ人には、手に入るすべての情報に誠実に向き合い、情報を集めて繋いで大局をイメージしようとする習性があります。そんな人に「効率的に飛ばし読みしてね」と言っても無理な話で、まわりがどうしようが何を言おうが、時間がかかっても苦しみながら情報を繋ぎ合わせて「何が書いてあるか」を理解しようとするはずです。


「タイパ」なんてばかり言ってる人たちからするとどんくさい行動に見えるかもしれませんが、これこそがマネジメント能力に優れる人の取り組みなのだということを、採用に携わる人は絶対に知っておかなくてはいけません。


管理職やベテラン社員を対象としたアセスメントの会場は、1つの情報だけに飛びついて、そこから手っ取り早く結論を導こうとする人たちで溢れます。「限られた情報の中で動く」という悪しき特性は、学生時代に既に確立されているのですね。



マネジメント能力

1つの情報に即応して動く人は、情報を集積する習慣を持たず、思考という取り組みに進むことがありません。その結果、物事の全体像に意識が届かず、その正体や本質がわからないまま動くことになります。何が大事で何がそうでないのかがわからないので、どこへどう進めばよいのかがわかりません。


「マネジメント能力」には、「マネジメント職に必要な力」というだけでなく「未知の場面でも自分の頭で考えて自分で進む力」という広い意味合いがあり、その力は経営者から新入社員まで仕事をする人すべてに求められます。1つの情報で動く学生は、未知の場面での目標設定力を持たないので、決まったことや言われたことでないと自力で動けない「仕事を任せられない人」となってしまう可能性が高いでしょう。


学生時代にすでに染みついてしまっているものを、社会に出てから振り払うことは容易ではありません。会社でいくらマネジメント能力の必要性を痛感しても、マネジメント研修を受けたとしても、思考回避の習慣から抜け出すのは大変です。理屈がわかっても、実際に頭を動かすことができません。


だからこそ新卒採用では、ボリュームゾーンとなっている思考しない学生群の中から、必死になって例外の人を探し出すことに、大きな意味があります。マネジメント能力の有無は学生時代にほぼ決まっています。「マネジメント能力のある人を育てる」ことを頑張ろうと思っている会社は、そのパワーを「マネジメント能力を持つ学生を採用する」ことに向け変えることで、必ず社内に大きな変化が生まれるはずです。


国内に応募者の情報処理の特性に着目して採用選考を行っている会社は少ないでしょう。半端な知識を振り回す派手な発信などに目を奪われず、未知の場面で与えられた情報に対する誠実さに着目することで、その学生の仕事場における生産性を予測できます。


希少価値を見つけ出すには、相応の覚悟と労力が求められます。根気の要る厳しい仕事になりますが、出会えた時の喜びはひとしおですよ。



精神的自立

ちなみに、本当に思考力がありマネジメント能力を持つ人には、ある「前提」が備わっています。それは、精神的自立です。すごく簡単に言うと「心が落ち着いている」ということです。


人間は、程度の差こそあれ誰でも、現実の自分を受け入れきれず「あるべき姿」に執着する心を持つことがあります。そしてそれが強くなり常態的になり過ぎると、自分に対する信頼が薄くなり、自分で勝手に作り上げた理想像を演じるようになります。


そうなってしまった人が最も恐れるのは他者に自分の現実を覗かれることなので、そうならないように他者を遠ざけて歪んだ自尊心を守る行動に走るわけですが、これが自己防衛行動です。怒鳴るとか威張るとか、はたまた媚びるとか言い訳を重ねるとか…、一般的に不快だなと思える行動のほとんどがこれに当てはまります。先述の「周囲からの見られ方を気にして理想の自分を演じることに汗をかく」というのは自己防衛行動そのものですし、「人に興味を持たない」人の根っこには、底堅い自己防衛の意識があることが多いようです。


常に強い自己防衛に支配されている人は、自分の殻に閉じこもって自分の感情をケアすることに忙殺され、外部の情報に向き合うことができません。もちろんそれは、多くの情報を必要とする思考という行動に進むことができる状態ではありません。


一方、自分の現実を受け入れている人は、そんな執着にあまり縛られることがなく、依存の無い自由な心で自分の行動を選択できるので、精神的に自立した人と称されます。その状態にある人は、何に邪魔されることも無く外部の情報に向き合うことができるので、思考する環境が整っていると言えるでしょう。


一部例外はありますが、「思考できる人は精神的に自立した人」という公式は概ね正解です。私たちは、この公式を利用して、思考力を知るためにその人の精神的自立性に着目します。また、そこに著しく弱みがある人は、他者にダメージを与える自己防衛行動を連発する可能性を否定できません。リスクマネジメントの見地からも、応募者の心に向き合うことは採用側の責務です。



精神的自立はいつ頃形成されるのか

さて、人が精神的に自立できるか否かは、いつ頃に決まってくるのでしょうか。諸説あるのだと思いますが、私は、「幼少期に親(特に母親)が子供にどう向き合ったかが大きく影響する」という考え方を支持しています。


幼い頃に自分の存在価値を親から認められていた人は、「自分はこれでいいんだ」「自分はここにいていいんだ」という安心感を抱き、その人の根底部分に自己肯定感が根付きます。「おまえはわんぱくでも出来が悪くても大事な私の子どもだ」というような親からの発信をたっぷり浴びてきた人間の心には、不毛な理想像を追い求める必要など生まれません。


しかし反対に、心の発達過程で、「あんなふうになりなさい」などと他者と比べ続けたりした人は、必然的に「私じゃダメなのね?」となってしまうでしょう。ありのままの自分を承認されてもらえなかったその人は、健全な自己肯定感を得ることができず、その後長きに渡って「あるべき自分」の影を追うことになります。


幼い時に親から承認を十分に得られた人が精神的に自立し、得られなかった人は強い自己執着を抱えて自己不一致(自分の中に現実の自分と理想の自分が存在すること)に陥りやすい… この説には合理性があると思います。


マネジメント能力が育つ条件とも言える精神的自立がこんなにも早くから決定されるのだとすれば、新入社員の時にマネジメント能力が決まっているのも当然ですね。



お母さんができること

採用アセスメントを内製化されたお客様の多くが、いろいろな理由があって新入社員を「社内アセッサー」に任命します。彼ら彼女たちは、数か月前に自分が受けたアセスメントに、今度は来年入社してくる後輩を選考するアセッサーとして臨むことになります。


入社式を終えて間もなく実施される「社内アセッサー養成講座」では、講義の合間に生徒さんたちと交わす雑談も楽しみです。反応や語り口や話の内容から皆さんの思考力や利他性の高さを再確認でき、私はいつも密かに一安心します。


そこにいる人たちは誰もが自由な心の持ち主であるはずなので、型にはまった画一的な受け答えを見せることはありません。物事に対する感性や話の方向性がそれぞれ良い意味で個性的でいつも感心します。でもある部分だけは、どの人も異口同音に同じことを語ります。それは、「母親との関係性が良好であること」です。


小さい頃に十分な承認を与え続けてくれた母親だからこそ、皆さんの大きな尊敬と信頼の対象になっているのでしょう。そしてそのお母さんのおかげで、皆さんは精神的自立というかけがえのないギフトを手にいれたのだと思います。


精神的に自立しない人が問題行動に走ってしまう時、その人は誰かを本当に攻撃しようとしているわけではなく、自分の心を必死で守ろうとしているだけであることが多いと思います。また、何らかのきっかけで自分の心の弱さを認知した人の中には、自己防衛に走りそうな自分の行動を一生懸命制御している人もいるでしょう。いずれにしてもそのような状態にある人の心は穏やかではなく、精神的にしんどい時を過ごしているに違いありません。


それに比べて精神的に自立した人は、自分の行動を選択する時に無駄なことを考えたり悩んだりする必要が少なく、生産的に前進していくことができます。それはとても有難いことであり、そんな恵まれた状況を与えられている人は本当に幸運です。


子供の心が形成される大事な時期に、その子供と最も長い時間にわたって最も近いところに居続けるお母さんの責任は重大ですね。


自分の子供に少しでも楽をさせてあげたいと願うお母さんは、たくさんお金をかけてあげるのも良いですが、それよりもまず子供の存在意義と価値を精一杯認めてあげてください。


もう少し笑顔を増やし、もう少し目を見てあげる回数を増やし、そしてもう少しだけ褒める回数を増やしてあげれば、きっと子供は大きな安心を得られます。そのひと頑張りが、子供がこの先心の平穏を維持していくための栄養になります。




「精神的自立→思考力→マネジメント能力」の能力ラインを備えている学生さんがあまりにも少ないので、ついついこれからお母さんになる女性陣に泣きつきたくなってしまいました。現実逃避もほどほどにして、明日のアセスメントも頑張ります。

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