恩師

2年前の8月、恩師が亡くなりました。大学のラグビー部の監督で、4年間お世話になった方です。その大学の教授でもあったので「先生」と呼ばれていましたが、パンチパーマがいかつくて、風貌は、「先生」というより「親分」でした。大学時代は強豪大学のスタンドオフとして秩父宮を沸かし、その後も日本協会の理事を務められるなど、ラグビー界では有名な方でした。

末端のラグビー部員に過ぎなかった私にとって、先生はただひたすら怖い人で遠い人でした。現役の時に口をきいたことなど数えるほどしかありません。先生の授業を受けたこともありません。そんな方を「恩師」と呼ぶのも厚かましいような気がしますが、でも、私にとって今も記憶の中に生々しく残っている「先生」はあの方だけなので、やはり恩師なのだと思います。




入学式に先駆けて私が練習に初めて参加した日、先生が、「神奈川の〇〇(私の出身高校)から来たんだって? 強豪じゃないか。」と、長く東京にいた関西人特有の変な「東京弁」で、にこやかに話しかけてくれました。それが先生との初対面でした。思わず「はい」と答えながら、「1年で退部しちゃったんだけどなぁ…」と後ろめたさを感じたのを覚えています。

高校での競技歴が1年しかなかったのに、無謀にも体育会の門を叩いた私でしたが、現実は甘くありませんでした。当時「関西大学Aリーグ」に所属していたチームだけあって、入部してくる連中は高校時代にエース級だった奴ばかりでした。即戦力の同期たちは、春のシーズンから次々にデビューを飾りましたが、初心者に毛が生えたような私には、なかなか出番が訪れません。

絶望混じりの空虚な数か月を送った頃、春のシーズンの最終戦のメンバー表に、初めて私の名前が書き込まれました。でも、やっと巡ってきたデビュー戦の出来は、大方の予想通り散々でした。トイメンの「元高校日本代表」に楽々と抜かれまくったあの試合が、今でも夢に出てきます。試合後はさすがに意気消沈し、「しばらく次は無いのかな」と思いました。

数日後、新入部員歓迎会を兼ねた春シーズンの打ち上げ会がありました。OBの挨拶や新入部員の決意表明などが終わり、やっと食事にありつける…と思った時に、先生から声をかけられました。「オフの間、ちゃんと走っとくんやぞ」今度は関西弁でした。また、「は、はい」としか答えられなかった私に、先生はにっこり笑ってくれました。入部してから2回目の「会話」でした。


オフ明けの菅平合宿では連日のように練習試合が組まれていましたが、私はなぜかほとんどの試合に出してもらいました。「奥山が急に試合に出だした」と同期たちはざわざわしていました。自分の置かれた環境のあまりの変化にふわふわした気持ちで過ごした初めての菅平を、今でも懐かしく思い出します。

その後怪我をして、秋のシーズンを棒に振ってしまいましたが、2年生からはレギュラーになれるものと思い込んでいました。事実、2年生の春合宿では絶好調で、「春のエース」などと呼ばれていい気になっていました。


その頃、私は何を思ったか、仲間と楽しく暮らしていた学生寮(あの山里亮太さんもここの住人でした)を出て 、一人暮らしを始めます。その結果、お金に困り、部活が終わってから深夜にバイトをすることを余儀なくされました。当然、ラグビーのパフォーマンスは急降下し、徐々に試合に出してもらえなくなりました。

間もなく夜のバイトの件も先生の知るところとなりました。「おまえ、ラグビーをなめとるんか⁉」今までにない怒気をはらんだ関西弁だったので、私はかなりびびりました。「なめてません!」 3回目の会話でした。

バイト事件に加え、タックルが弱いことがすっかりばれたりして、それからの2年間は、あまり試合に出られなくなりました。私は常に退部届を持ち歩いていましたが、中学高校で部活を辞めた後悔の大きさを思い出して、何とか踏みとどまっていたのだと思います。糸が切れそうになると、ぎりぎりのタイミングで二軍戦のチャンスが与えられる、でもそこで怪我をする… のようなことの繰り返しで月日は過ぎていきました。


そんな「なんちゃってラガー」も4年生になりました。「最終学年だし、少しはきりっとしなければ」と思ったのか、春のシーズンに少しずつコンディションを上げ試合勘を戻していった私は、絶好調で最後の夏合宿を迎えることができました。その合宿では練習試合が3試合組まれていましたが、最初の試合のAチーム(一軍)のメンバー表の11番(左ウィング)には私の名前がありました。

やっと掴んだ一軍のスタメンです。「死ぬ気で頑張ろう」と誓った私なのですが、練習で痛めた左肩が気になっていました。「左ウィングだと左肩でタックルに入ることが多いので(注:本当はそんなことありません)、右ウィングでベストを尽くしたい」と考えた私は、14番(右ウィング)で出場予定だった同期に「左右変えてくんない?」とお願いしました。彼は「ええで」と快く承諾してくれました。

「首脳陣が決めたポジションを、試合直前に選手が勝手に変えてしまう」という暴挙に走った私でしたが、それがいかにやばいことなのかを、その時はあまり理解していませんでした。「左右を変えるだけだから」くらいに考えたのだと思います。試合直前のアップで私が14番の場所にいることに気が付いた先生は激怒し、私は即座にその試合のメンバーから外されました。


<後日談> 

その30年後、世代を超えたOBが集まった懇親会のスピーチの場でこの話をしてみたところ、ほんの小ネタのつもりだったのにドカンと受けてしまい、私はかなり困惑しました。特に若手OBたちは、「そらあかんわ!」「信じられん!」と大喜びでした。

彼らは、私たちと違ってスポーツ推薦で大学に入ってきたラグビーエリートなので、共有している常識が私たちの頃と違うのでしょう。「そんな凄いことを俺はやっちまったのか」と事の重大さを再認識させられた夜でした。

ちなみに、あの時「ええで」とポジションを変わってくれた奴もその場にいて、若い奴らに乗っかって大笑いしていました。「おまえ、何でそっち側におんねん」と私は心の中でつぶやきました。

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顔面蒼白になった私はすぐに先生のところへ飛んでいき、必死に詫びを入れましたが、もちろんお許しは出ませんでした。精神性の拙さを指摘する厳しい叱責を受け、私はうつ向いたまま何も言えませんでした。先生は、最後にポツリとおっしゃいました。

「お前、何のために東京から出てきたんや…」

私は思わず顔を上げました。先生の表情が心なしか悲しそうに見えました。


「すみません…」

4回目の会話は、生涯忘れられないものになりました。



結局、次の試合にはメンバーに戻してもらい、当時、日本一を争っていた大学との死闘となったその試合は、敗れはしましたが私のベストゲームになりました。その後秋の公式戦にも出場することができ、「ハッピーエンド」とはいかないまでも、何とかいい形で4年間を締めくくることができました。




考えてみると、現役時代に先生と「会話」をしたのは、多分この4回だけだったと思います。試合中に指示されたり怒鳴られたりする日常はあっても、先生と面と向かって言葉を交わすのは、やはり私にとって特別なことだったのでしょう。会話と言っても、「はい」とか「すみません」などと一言返すのが私にとっては精一杯でしたが、どれも自分なりに頑張って絞り出した一言でした。

たった4回しか言葉を交わすことがなかった先生を「恩師」と呼びたくなってしまうのは、先生が私の4年間をずっと見ていてくれたように思えて仕方がないからです。



なかなか試合に出られなかった1年生の春、すっかりいじけてしまった私は、「自分は忘れられている」と信じて疑いませんでした。でも先生は、基礎の出来ていない一人の落ちこぼれがなかなか試合に出られる状態に仕上がらないので、「どうしたものか」と思っていたそうです。(30年後の先生談)

やっと巡ってきた初試合、私自身としては何もできなかったという自覚しか無いのですが、先生はそんな試合の中で私のスピード(?)に目を留めてくださり、そのおかげで私はその後しばらく、それまでとは違った景色を見ることができました。

夜のバイト事件がばれた時の先生は怖かった。私を何とかしようとしてくださっていた先生を完全に裏切ってしまったわけで、今も後悔の念とともに心が痛みます。

私はその後長く燻ることになりました。でも試合に出ない期間が長くなると、練習で特に調子が良かったわけでもないのに突然練習試合や二軍戦に呼ばれることが何度かありました。私が壊れてしまわないように先生が遠いところから温情を施してくださったに違いない…と、私は密かに自惚れています。初試合の時と同じだと…。




あの日、先生の「お前、何のために…」という呟きと悲しそうな表情に触れて、先生と私との数少ない接点が繋がり一本の線になりました。あの初対面の日からずっと、先生は私に対して「せっかくわざわざ関東から来たんやから、頑張らなあかんやないか」というメッセージを投げ続けてくださったのではないだろうか…、私は今、そう思えてなりません。



先生の思いに応えたとはとても言えないまま、私の4年間は終わりました。引退後初めて後輩たちの練習を見に行った日、OB面してグラウンドに降りていくと、先生がニコニコして迎えてくださいました。初めて見るような笑顔でした。来るシーズンに向けた戦略や戦術、新チームの特徴や期待の選手についてなど、先生はたくさんたくさん話してくださいました。

4年間の会話量はあっという間に超えられてしまい、私もあの頃と違って「はい」や「すみません」以外の言葉を発することができました。まるで憧れの有名人と話しているような、舞い上がっている自分を感じました。

その後も、絶え間なくというわけではありませんが、先生との交流は続きました。私の香港駐在中は、香港セブンズの観戦で来香された先生やご家族と何度か食事をご一緒しました。私が50歳になった頃からは、先生のお店に遊びに行ったり、先生を囲むゴルフコンペに参加したりと、先生に会うために関西へ足を運ぶ機会が増えました。

学生時代は畏怖の対象でしかなかった先生に、一人前の社会人として扱ってもらう快感を、私は知ってしまったのだと思います。白浜でのゴルフの後、露天の樽風呂に二人で入って最近の学生気質について語り合った時、私は「もしかしたら少しだけ恩返しできたのかもしれない」と思いました。




コロナ禍となり、遠方の人と会えなくなって2年が過ぎた2022年の8月に、先生の訃報が届きました。癌で闘病されていたことを知ってはいましたが、自分でも意外なほどのダメージを受けました。時節柄、ご葬儀に参列することもかなわず、お別れの会なども開催されませんでした。

これからもっと先生との時間を増やそうと思っていた矢先にコロナで交流が途絶え、そのまま二度とお会いできなくなってしまったことが、私は悔しくて仕方ありません。




先生のご逝去から2回目の8月を迎え、どうしても先生とのことを書き残しておきたくなりました。




個人的なことで、長々と書き連ねてしまいすみません。

二年遅れの追悼文ということで、お許しください。

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