無味乾燥【復刻版】-2008年7月29日公開-

無味乾燥【復刻版】-2008年7月29日公開-

昨日から諏訪に来ていた娘を国立まで車で送る途中、遅めの昼食を、と、中央道原村のPA(パーキングエリア)に寄った。PAはSA(サービスエリア)と違って食堂などの規模は小さいが、それなりに工夫をこらしたものを食べさせてくれるところもあり、特に原村PAには「頑張ってる」という印象を持っていた。

 

ところが、しばらく見ないうちにそこは新しい大型コンビニに支配されており、食べ物処はその施設の一部としてのきれいだが無味乾燥な空間に変えられていた。メニューも一新されていて、「工夫をこらした」食べ物は消えていた。

 

いい加減にしてくれぃ !!   と言いたい。

 

 

 

SAやPAのおみやげ物やいつの間にかどこにでもコンビニに姿を変えていることが増えた。

 

二~三年前のことだと思うが、JR上諏訪駅でも、あれだけ人気のあった立ち食い蕎麦屋がつぶされ、しょーもないコンビニに変わった。

 

駅のキヨスクのおばちゃんおじちゃんの「釣り渡し名人芸」は姿を消し、これもまたコンビニに!  狭い通路に客を押し込み並ばせる形態が、みんなの大いなるストレスを招いている。

 

JRの古い駅ビルに入っている名物店や老舗の専門店は次々とつぶされ、ばかでかいだけの「全国共通仕様」の駅ビルに変わっていく。周囲の景観にマッチしていた国立駅の素敵な駅舎も取り壊され、普通の駅ビルに変わる。(駅舎は保存されます…との張り紙はあったが、そういう問題か?)

 

 

 

今、日本中どこに行っても、同じチェーン店が軒を並べ、同じ光景が広がる。JRや、NEXCOも、そうやってとりあえず画一的に整えていけばみんなが喜ぶと本当に思っているのか? (喜んでるのかもしれん 💦)

 

 

 

国民の感性を舐め切ったミスリードに、心底イラつく。舐められっぱなしの私たち自身にも。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

0 Comments

Leave a reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*