東京からの帰りの中央道で、発作的に吉野家の牛丼が食べたくなり、甲府南ICで降りた。
吉野家の牛丼はもはや僕にとってうまいとかまずいとかではなく「文化」であり、いつも触れていなくてはいけないものになっている。
大学時代、吉野家で深夜のバイトをしていたことがある。「一回の勤務につき三回牛丼が食えるから」というのが最大の動機であった。夜九時の出勤時に一食目、二時~三時の休憩時に「夜食」として二食目、朝八時に仕事を終えての朝飯が三食目、である。
これが幸せで機嫌よくバイト人生をスタートしたのだが、吉野家のバイトは、後に僕が経験するミスドやケンタッキーの深夜業務と違ってめちゃくちゃキツイ肉体労働であった。
一ヶ月頑張ったが、昼はラグビー部、深夜はバイト、の生活に体が悲鳴をあげ、ある夜中に高熱を出して倒れ、そのまま退職した。これが当時のラグビー部の監督に漏れ伝わり、監督は烈火のごとく激怒した。
「おまえは体育会をなめてるのか!」
なめてはいなかったが、深夜の高給を求めないと生活できなかった。でも、お怒りはごもっともだった。その後、僕は長きに渡り、干された。
バイトは辞めたが「よしぎゅー」を毎日食べる習慣は残ってしまった。来る日も来る日も食べていると、飽きて「見るのも嫌」となるのか、染み付いてしまうのか、どちらかなのだろうが、僕は後者だった。
しばらくすると、さすがに毎日は食べなくなったが、それでも継続的に口にしていた。
食べられない時期が二回あった。一度は香港駐在時。滞在三年目に香港に吉野家一号店ができた時には、涙が出るほど嬉しかった。そして二回目はついこの間のBSE騒動時である。
BSEの時には、吉野家の凄さを見せつけられた。数ある牛丼屋の中で、彼らだけはどんなことがあっても牛肉の原産国を変えなかった。考えてみれば当然のことで、「味が変わること」の意味が吉野屋と他の店では天と地ほど違うのだ。
僕は牛丼を食べたくて吉野屋へ行くのではなく、「吉野屋の牛丼」を食べたくて行く。もっとうまい牛丼はたくさんあるだろうが、それらとよしぎゅうは別の種類の食べ物なのだ。
吉野屋の安部社長は、バイトあがりだ。僕が抱き続けるような吉野屋へのロイヤリティーの質がわかっているから、「肉を変えようか。」などという迷いは全く無かったのではないだろうか。そして、安部社長の頑張りは報われ、再開と同時にその日を待ちわびた人たちで各店舗は溢れかえった。僕と同じような人は山ほどいるのだ。「ノスタルジー」のようなものだけでそんなに人をつなぎとめることはできない。あの味は、説明ができない魔力を持って多くの人たちの舌を支配し続けている。
お客様が求めているものを本当に知っている人が社長の地位にいたからこそかなった復活劇であった。どっかの会社から途中から来たような社長であれば、即、「肉の産地を変えて…」の牛丼再開を図っだろう。そして全国の吉野屋ファンの絶望のため息に呪われながら、吉野屋は衰退の一途をたどったはずだ。
吉野家もあの騒動を境にいろいろとメニューが増えた。あの味に「狂ったような執着」を持つ僕らの世代はいずれ消えていくのだから仕方ない、が、吉野家の魂である牛丼の地位と味だけは守ってね… と切に願う。
「大盛りと卵っ!」と頼むと、「牛丼、ですか ?」と聞き返す若い店員が増えてきた。僕らよしぎゅー世代はこれが許せない。