失われた美学【復刻版】-2008年12月8日公開-

失われた美学【復刻版】-2008年12月8日公開-

昨日ラグビーの早明戦があった。後でネットで知ったのだが、明治が勝ったらしい。今年の対抗戦は、常勝だった早稲田が帝京に負けて優勝の望みを絶たれ、明治に至っては六位が決まって大学選手権に出られないことが決まっていた。昨日の伝統の一戦はいわば消化試合となってしまい、観衆もここ数十年では最低の二万人台を記録したようだ。

 

ラグビーの早明戦で観衆が三万人を切る… ひとつの時代が終わった気がする。ラグビーブーム(あったのですよ)の頃は、早明戦と言えば六万大観衆が当たり前で、その日と翌朝のメディアを独占したものだ。僕なんかは、あそこに出られる人間こそが世界で一番幸せな人たちだと信じて疑わなかった。

 

それがここ数年どんどん輝きを失って、昨日なんか、どのスポーツニュースを見てもソウメイのソの字も出てこない。ネットがなければ朝刊まで結果を知ることができなかった。結果は大番狂わせで明治が九年ぶりに早稲田に勝ったようだが、そんなことよりも憧れだった伝統の一戦のステイタスの凋落ぶりが、僕にとっては強烈だった。

 

 

 

試合後、ネットの住人たちが、早稲田の選手がトライした時に立てた指が中指か人差し指かを騒いでいた。

 

どの指だろうが、ラガーがトライの後指を立てるなんて、おじさんは本当に悲しい! いつからだろうか❔ トライしてガッツポーズをする奴が出てきたのは ? ガッツポーズどころか、最近は踊る奴までいるし、指立てるのがいても驚かなくなってる自分が悲しい。

 

 

 

僕がラグビーを始めた三十三年前、まず教えられたことがある。

 

「みんなが体を張って生かしてくれたボールをたまたま最後に手にしてトライした奴は、他の十四人への感謝と謙虚な気持ちを絶対に忘れてはいけない。」

 

この概念は、僕らの中では絶対だった。だからその頃、トライを取って帰ってくる選手は、皆に頭を下げるように下を向いて戻った。トライを喜んでへらへら浮ついたところを見せようものなら、試合後監督からえらいこと怒られた。ガッツポーズなんかしでかした日には… と、考えるだけでも怖い。

 

トライして我を忘れて喜んではいけない、どんな時でも敵も含めた自分以外の二十九人への尊厳を忘れてはいけない… この崇高でスノッブな精神が僕は大好きでラグビーにのめりこんでいくことになる。

 

 

 

もうひとつ、「レフリーは絶対。」ということ。

 

ラガーなら誰でも知っている伝説がある。

 

二十世紀のはじめ、英国に遠征したニュージーランドのオールブラックスは三十一連勝して最後のウェールズ戦を迎えた。三点を追うノーサイド間際、オールブラックスのフルバック、ディーンズがタックルを受けながらゴールポスト左に飛び込んだ。「トライ!!」誰もが信じ、スタンドから地元ウェールズファンの悲鳴が上がった。

 

その悲鳴はすぐ大歓声に変わることになる。「インゴールノックオン!」、トライならずの判定である。レフリーの明らかな誤審であった。しかし、ディーンズはこの時一言のクレームも発することなく静かに判定に従った。オールブラックスは、0-3で破れ、ニュージーランド国民が願ったツアー全勝の夢はここでついえた。

 

四年後、ディーンズは徴兵され、戦場で二十四年の生涯を終えることになる。戦友たちに看取られながら、彼が最後に言い残した言葉はひとつ…

 

「あれはトライだった…」

 

 

 

この話は当時高校生ラガーだった僕の心をわしづかみにした。それ以降今まで、僕はレフリーの不条理な判定にも不服な顔を見せたことがない。「ラグビーは他のスポーツと違って、絶対レフリーに抗議できないのだ」は、ラグビーをやっている僕の大きな誇りだった。

 

なのに… 今は高校生からレフリーにアピールしやがる。世も末だ。

 

 

 

ラグビーという「英国発紳士のスポーツ」の根底となっているはずのスピリッツが今のラグビー界には見えない。トライ後の大騒ぎもレフリーへの暴言や悪態も、一般的な事象になりつつあり、日本一注目を集める人気チームである早稲田においてもそれは例外ではない。

 

少し嫌味なくらいの独特の美学が日本人の価値観をくすぐったからこそ、一時期「唯一国立を満員にできるスポーツ」と言われるほどにラグビー人気が高まったのだと思う。

 

その美学が失われつつあることと、早明戦のステイタスの凋落やラグビー人気の低迷とは、決して無関係ではないはずだ。

 

僕と同じくらいの時期にラグビーを始めた人たちが、今、各世代の指導者となっている。彼らの多くが、その頃「ラグビー精神」を叩き込まれたはずなのに、なぜ、それを今の若い子達に継承しようとしないのか、すごく不思議である。

 

 

 

「時代が違うから」の一言で片付けていいのだろうか。アナクロと笑われようが精神論と煙たがられようが、指導者が志を芯に据えて時代の流れに抗っていかないと、大切なものは守れない。

 

粛々と礼節を尊びながら激しいプレーをする「武士道」を持ったチームを作ってくれる指導者が現れるのを、僕は心から願っている。そしてその指導者が日本ラグビー界の救世主になるに違いない。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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