╂ 当社の歩み ┛ その1  アセスメントとの出会い②

╂ 当社の歩み ┛ その1  アセスメントとの出会い②

いろいろ思い悩む割には考えがまとまらず発信の質量ともに低調な私の隣では、相変わらず「彼」が衰えぬパワーで討議を仕切っていました。私の中では彼の勝利は決定的になっていて、私は早々に勝負の土俵から降りていました。そして、妙にピュアになってしまった私は、手許の情報紙への正対を強めていくうちに、大きなコンフリクトにぶち当たったのです。

 

他のメンバーは、「大きな問題が起こっている中で、どう対処すればよいか」という方法論を巡る議論で盛り上がっていたのですが、私の頭の中では「いや、そもそもその問題を受け入れてはあかんやろ」という自説への執着が強く、思考をそこから離すことができません。我慢できなくなった私は、何かに押されるように議論の中に割って入りました。しばらく口を開かなかった奴が急に出てきたので、場は一瞬シーンとしました。その静寂に少したじろぎながらも、私は思い切ってその自説を場に投げました。 

 

すると、私の発信が終わるや否や、食い気味に言葉をかぶせてきたいかにも利発そうな女性メンバー(後で知りましたが、「一流大学大手証券会社」のエリートさんでした)がいました。

 

「そんなことはもう決まったこととして書かれているのですから、そこは動かせないものとして、どうすればよいかを議論すべきではないでしょうか。」

 

討議の流れを妨げようとする乱入者を厳しく諫めるような、そして少し呆れたような嘲笑をも含んだ、小心者の私を黙らせるには十分な威力を持つカウンターパンチでした。「この女の人も受かるのだろうなぁ」と直感的に思いました。自分がとんでもない過ちを犯したような気がしてシュンとした私でしたが、一方、釈然としない気持ちも沸き上がり、それは重視すべき前提なのか、それともその前提を変えていくべきなのかがわからなくなって、また更に深く内向しました。「こんなに頭を使ったのは何年ぶりだろう」と思うくらい思考を繰り返しているうちに、終了時刻となってしまいました。

 

 

ろくに発言もできないばかりでなく、余計なことを言って女性から叱られる醜態まで見せた私は、採否についてはもう完全に興味を失っていました。でも、決して嫌な疲弊感や不快感は残っておらず、むしろ妙な充実感が残っていました。あんなに忌み嫌っていたグループ討議を終えて、こんなに爽やかな気分に浸っている自分が不思議でした。決して茶番などではなく、考えるに値するテーマがあり、そしてそのパフォーマンスが誰かに正当に評価されている匂いがするから、嫌ではないのかも、と、そこまで思い至った時、1時間私たちを観察していた2人の試験監督(今思うとアセッサー)に初めて意識が向きました。

 

「さっきの討議から、私たちを、そして私をどう評価したのか、今すぐ教えてほしい」

 

という強烈な欲望が、急に燃え上がったのを覚えています。

 

 

後日談ですが、「100%落ちた!」と思っていた私は、運よくその日の選考を通過しました。ちなみに、次のステップとして開かれた最終選考会に、私が、絶対合格すると信じて疑わなかった、右隣の仕切り屋氏や、あのエリート女性の姿はありませんでした。1次選考通過の報に接し、アセスメントの視点が、社会通念に染まった一般的な人を見る視点とは完全に一線を画したものであることを悟って、私は一人静かに興奮しました。

  

 

「グループ討議」が終わると、もうひとつのアセスメント演習が待っていました。

インバスケット演習です。

 

(まだ続きます) 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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