小さな会社の採用革命=50の新常識= ⑤ 「管理職は中途採用でカバーする」は、悪手である。

小さな会社の採用革命=50の新常識= ⑤ 「管理職は中途採用でカバーする」は、悪手である。

人材紹介の依頼

創業後まだ三年ほどしか経っていなかった頃のある夕方、アポなしの来客がありました。その方の風体から「飛び込み営業やおかしな勧誘などではないだろう」と判断した当社の女性社員によってその方は応接室に通され、私がお話を伺うことになりました。
「管理職になれるような人を紹介してください」 私が席に着くや否やの「発注」でした。創業後の数年間、私たちは人材紹介の仕事も承っていたので、その方はそちらの方のお客様だったのです。

 

「うちには管理職が務まるような人間がまったくいないので」

 

その後、彼の口からはその言葉が何度も何度も出てきました。その方は、従業員二百人前後の規模ながら安定した経営基盤を持つ土木関係の企業の社長でした。事業の拡大とともに現場の技術者や作業員が急速に増えていき、その一方で昔からの幹部社員が次々と定年を迎え、気がついたら全体に対してマネジメント職の割合が極めて少ないいびつな組織構造になってしまったとのこと。「社内を見渡しても、現場の実務者や専門職ばかりでマネジメントを任せられる人はいないと思う」というのが、社長の見立てでした。


外に求める前に中を探す

人が社会に出る年齢になる頃には、その人のマネジメント適性の有無は既に決まっています。人はマネジメント的な仕事の中でマネジメント能力やマネジメントへの適性を高めていくわけではありません。マネジメントの経験はもちろんその人の引き出しを増やしてくれますが、だからと言ってその経験は、その人のマネジメント能力そのものを変容させるわけではないのです。「マネジメントとは一見無縁の場所で仕事をしてきた人に管理職適任者はいない」という考え方には根拠が無いことを、私ははっきりと社長に伝えました。

 

そして私は、「外から人を採用するのは、社内に本当に適材がいないのかを精査してからでも遅くない」という私の持論を述べました。精査をする方法などあるのか、というA氏の疑問に対し、私は適齢の社員を集めて社内アセスメントを実施することを提案すると、社長は驚くほどあっさりとその提案を受け入れてくれました。社長が当社の扉を開けてから二度目の発注まで、かかった時間はわずか二十分でした。その時作られた「初対面から成約までの最短記録」は、今なお破られていません。

 

やはり現れたダイヤの原石

あれよあれよという間に決まったアセスメントは、その数日後に実施されました。二十年近くも前のことなのに、驚くほど鮮明に覚えていることがあります。今すぐ課長にしても大丈夫だと診断した男性社員が一人だけ存在したこと。三十歳前後のその社員はニッカーボッカーのような作業着を着ていて、一見元ヤンキーのような風情を見せながらもしっかりと物事や人に向き合う好青年だったこと。時間が経つにつれてその彼の顔がだんだん優しくなっていったこと。そして、その彼には間違いなくマネジメント適性が認められることをその日のうちに社長に伝えたこと。

 

一か月後、私は再び同社を訪れ、アセスメントの報告書を社長に手渡しました。それをパラパラとめくりながら、社長は少し嬉しそうに口を開きました。「彼、今のところ立派に課長やっていますよ」「えっ?もう課長にしたんですか」と聞き返そうと思いましたが、「だって課長にしていいって言ったじゃない」と言われそうで止めました。それから約三十分、社長は彼のことを色々と話して下さいました。実は本当に「元ヤン」だったこと。入社当時はかなりやんちゃだったが、なぜか先輩には可愛がられていたこと。一貫して女子社員受けが妙に良いこと。それらのことは、あのアセスメント以降、社長が色々な人にヒヤリングしてわかったことだそうです。現場で彼と一緒に働いている親会社の管理職に、反対されることを想定して彼の課長昇進をほのめかしたところ「彼ならいいんじゃない」とあっさり言われて驚いた、ともおっしゃっていました。最後に社長はいたずらっぽく笑ってこう言いました。「もちろん彼のことは知っていたけど、彼と管理職とは全然結びつかなかった」「人ってわかんないもんだね」

 

「管理職の適材が社内にいない」の根拠は薄い

その後今に至るまで、あの日のような「管理職が務まるような人間がいない」という相談は後を絶ちません。そして私はそのたびに「外に求めるより中を探しましょう」と答え、アセスメントをやってみると必ずと言っていいほど埋もれたダイヤの原石が見つかります。

 

「管理職の適材が社内にいない」という経営者の言葉には概して根拠がありません。「外から採る前に現有社員に向き合う」のが組織再編の鉄則であり、そうでないと必ず社内の士気が下がります。そして、「転職市場はマネジメント能力に欠ける管理職経験者で溢れている」という事実にも向き合わないと、中途採用を繰り返すたびに会社が弱くなります。

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に憧れの関西に移り住み、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。 その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。 37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。 歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これで俺のラグビーとゴルフは変わる!」と、加齢という現実から目を逸らして盛り上がる。月イチで山へ芝刈りに行く日常は戻ったが、たくさん叩くのは足のせいではなかった・・・ことに薄々気づき始めた今日この頃。

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