ワークスタンダード

ワークスタンダード

お客様から嬉しい年賀状を頂きました。工場を訪問されたお客様から こう言われたそうです。

 

「機械も凄いけど従業員が凄いですね。目つきが違う」

 

創業四年目のその会社には五名の若い正社員がいらっしゃいますが、 皆さん採用アセスメントの難関を突破して入社されました。新型コロナの再燃で少し重苦しく始まった2021年でしたが、その年賀状一枚でがぜんテンションが上がりました。

 

 

 

実はその会社のSさんから、昨年末にメールで相談を受けていました。

 

「応募者が三名になってしまったグループ討議はやりたくないです」

「三名になった場合は、私たちのどちらかが討議に参加するようにしたいのですが」

 

彼女は同社が創業直後に初めて採用した社員で、内製化された採用アセスメントの社内アセッサーを務めています。

 

 

 

採用アセスメントの一次選考にあたるグループ討議は、四名から六名の応募者で構成されます。三名でもグループ討議の体裁は何とか作れるのですが、私たちは社内アセッサーの皆さんに「なるべく被験者を三名にはしないで」と言い続けています。その理由は・・・

 

 🙁  グループ討議の構成メンバーが三名になると、「(人数が少ないから)私も何かやらなくては」という外発的な役割意識がより強く喚起されるので、その人が自発的(内発的に)やろうとしたことなのかどうかが見えにくくなる。

 

 🙁 そのため「頑張ったように見える行動」が、その人の本質的な志向や価値観から生まれた行動ではないケースが増える。したがって「プラス評価」の精度が、四名以上の時より疑わしくなる。

 

 🙁 また、三名の中の一名が発散的にしゃべりまくる「困った人」だった場合、対比誤差によるバイアスによってその他二名の行動が良質に見え、問題行動が見逃されることが多い。

 

要するに、グループ討議の構成メンバー(応募者)が三名になってしまうと、アセスメントに誤差が生じる可能性が高まるのです。私も十数年前に、「対比誤差」で手痛いミスアセスメントをやらかしてしまった苦い経験があります。

 

ただ、「三名禁止」を守るのは容易ではありません。アセスメントの当日に応募者が三名になってしまう事態は実に頻繁に発生します。採用担当者が四名から六名をアレンジしても、当日キャンセルや無断欠席によって櫛の歯が欠けるように応募者が減ってしまうことが日常茶飯事の現状では、手の打ちようがありません。

 

二名だとあきらめもつくのですが、三名だと実施しようと思えばできるので、実施企業の多くで「三名になったらそのまま実施」というガイドラインができているようです。アセスメントの質にこだわるなら望ましくないことは間違いないのですが、諸事情を考えればその対処が最も現実的なのだと私も思っていました。

 

 

 

そんな中でのSさんの申し入れでした。少し前に「三名のグループ討議」で少し不本意なアセスメントをしてしまったことが悔しかったのでしょうか。もう一人の社内アセッサーNさんと、今後のアセスメントについて相当話し合ったようでした。そしてその結果、「三名のグループ討議だと精度が下がることがわかっているのに、それをやるのは嫌だ」「三名になってしまったら二人のうちどちらかが討議に参加するようにしたい」という意志表明になりました。

 

その後、

 

👨「他の社員の方々に討議に入ってもらうようにすれば?」

 

👩「現場が忙しく時間調整が難しい上に、採用アセスメントは土日の実施が多いので私たちがやるしかないんです」

 

👨「三名で強行するリスクとアセッサーを減らすリスク、精度を確保するためにどちらを取るべきか考えてみましょう」

 

のようなやり取りがあり、結局はアセッサーを減らすことについては思い留まってもらいました。そして、三名のアセスメントでミスが起こるリスクを減らしていくための心構えや方法論を、今後共有していくことにしました。

 

 

 

Sさんは、こうも言いました。

 

「私は二次選考にあまり依存したくない」

「アセスメントを任せられていることに責任を感じているので、『二次があるからいいか』と安易に考えたくない」

 

 

これは衝撃的でした。アセスメントを伝えた者としてこれほど嬉しい言葉はありません。

 

採用アセスメントの内製化を済ませている会社の半数以上で、二次選考アセスメントを私たちが担当しており、もし社内アセッサーによる一次選考で多少の見落としや論理誤差があっても二次選考で修正され精度は担保されることが期待されます。私は、本業も抱える社内アセッサーの皆さんにあまり精神的な負荷を背負わせてはいけないと考え、「一次で見えないものがあっても二次でわかるから大丈夫」のようなことを、あちこちで言ってきたように思います。でも、Sさんは「もっと責任を背負いたい!」と言ってきました。彼女たちの「ワークスタンダード」が高いことは彼女たちをアセスメントした時に十分理解したつもりでしたが、仕事の質へのこだわりと使命感の強さは私の想像を超えていたようです。

 

 

 

 

「ワークスタンダード」とは、任意の場面で自分自身が設定する目標設定ハードルの高さのことです。高い人は、「仕事に自分の持てるだけのエネルギーを注ぎ込んで、できる限り質の高い取り組みやアウトプットを目指したい」と願い、低い人は、「ほどほどの注力に抑えて、必要最低限の仕事をこなせばいい」と考えます。

 

ワークスタンダードが高い人は、「やれと言われたこと」以外にも自分ができることを探して自分の質的生産性を高めようとしますが、低い人は「やれと言われたこと」だけしかやろうとしません。せめて「やれと言われたこと」だけでもきちんとやってくれればまだ許せるのですが、ワークスタンダードが低くなればなるほど自分の仕事の質への興味が薄れ、仕事が雑になって見直しもしなくなります。そしてその結果、「やれと言われたこと」の生産性さえ担保されにくくなります。このようなことが繰り返されると、まともな経営者であればメンタルにボディブローを受けるようなダメージが積み上げられてしまうでしょう。

 

ワークスタンダードは人生の中で確立された価値観で、その人の仕事観(仕事に対する考え方や仕事の意義の捉え方)に直結しています。二十年以上生きてきた人の価値観が、簡単に変わることはありません。仕事にあまりエネルギーを使いたくない人に無理強いすると、反発を招くかその人がパンクしてしまうかのどちらかになり、いずれにしても双方にとって不幸なことになります。低い人を指導で変えることが難しいのであれば、心ある経営者にできることは社員個々のワークスタンダードを受け入れて無理の無い仕事の与え方を心がけること、そしてできることなら低い人を採らないように頑張ることしかありません。

 

 

 

採用アセスメントでは精神的自立性とワークスタンダードという二軸でリスクマネジメントを行います。精神的自立性に問題がある応募者は、心の未成熟や幼児性など入社後の問題行動に直結する特性を持つことが多いので、その部分を管理することは絶対不可欠となります。人の問題で苦労した経営者ほど、「そこの部分をしっかり観て欲しい」と思うはずで、私たちもそこは漏らさない自信があります。

 

一方、ワークスタンダードには「程度問題」という側面もあるので、精神的自立性に比べるとやや管理が緩くなってしまうことは否めません。そもそも、仕事観が時代と共に変容する中でSさんやNさんのような「鉄板の人」が減ってきているのは確かなのに、それを絶対要件として求めてしまうと誰も採れなくなってしまいます。したがって、採用アセスメントでは「少しでも高い人」という現実的なハードルが設定されることが多くなるのです。

 

特に大規模企業や欠員補充を急ぐ企業で採用アセスメントを実施する際には、ハードルを少しだけ下げることを余儀なくされます。何十何百という新入社員を確保しなくてはいけない会社や今すぐに人が欲しいと急ぐ会社に、百人に一人もいないかもしれない希少な人材を待つ余裕などないからです。

 

 

 

 

このように、「ワークスタンダード」という評価基準の運用は、一筋縄ではいきません。そしてその取扱いを更に難しくしているのが、評価する側の問題です。

 

「ワークスタンダードの高い人は高い生産性をもたらす」という考え方は基本的には正しいと思うのですが、事はそんなに単純ではありません。社員のワークスタンダードの価値は、上司や経営者によっても変わってくるからです。

 

まず、ワークスタンダードの低い上司や経営者は、ワークスタンダードが高い部下をあまり求めません。自分が仕事の質にこだわらないので、部下にもそれを求めません。そんな上司や経営者は、部下の優位性を理解できないし評価もしません。むしろ仕事の質や成果にやたらとこだわる部下を鬱陶しく感じることすらあるでしょう。ワークスタンダードの低い管理職や経営者が支配する組織に、ワークスタンダードの高い人が足を踏み込むと、その人は大概不幸になります。そしてその多くが早々に辞めていくことになります。

 

一方、ワークスタンダードが低い上司や経営者は、部下のワークスタンダードが低くてもあまり気にしません。あからさまに仕事をさぼったりするレベルだとさすがに嫌がるでしょうが、部下が表面的に作業を遅滞なくこなしてさえいれば、その質的生産性にまで意識を向けることはありません。

 

「ワークスタンダードの低い従業員に満足しているワークスタンダードの低い経営者」

 

この構造に陥っている組織を、私は今まで数えきれないくらい目にしてきました。(高学歴の従業員のワークスタンダードの低さに気づかない小規模企業の経営者が多いことは特筆されます) 緩い者同士の上下関係は一見平和で問題無さそうに見えますが、規律の低下や質的生産性の棄損が進んで組織が内面の深いところから腐っていく怖さがあります。そしてその劣化はいずれ外部の目に触れることになり、ステイクホルダーの評価や行動に影響を与えることになります。

 

 

 

 

かくして、ワークスタンダードの低い経営者の下には、ワークスタンダードの低い従業員しか存在しなくなります。前のブログで述べたように、膨張することはあっても真の成長は望めません。「会社は経営者のワークスタンダードなりにしか大きくならない」ということでしょう。

 

 

 

 

「ワークスタンダード」という概念が組織づくりや採用に取り組む経営者にとっていかに重要かを伝えようとしていたら、いつの間にか経営者の素養に言及する大きな話になってしまいました。

 

私はこれからも今までどおり、「人に向き合う」という心身共に負荷のかかる取り組みを厭わない「ワークスタンダードの高い経営者」と仕事をしていきます。そして、SさんとNさんのような仕事人を一人でも多く発掘して輝かせることに、今まで以上にこだわりたいと思っています。

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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