立ち止まったからこそ得られたもの

立ち止まったからこそ得られたもの

前回のブログで触れた「八年前に採用アセスメントの内製化を支援した企業」とは、ここ数年ご無沙汰していました。所在地が遠方にあることに加えて、「二次アセスメント」も内製化して完全に独自運営されることになったからです。

 

二年半ほど前に一度同社を訪問したことがありました。私が勝手に戦友だと思っている同社の社長は、ほぼ四年ぶりに顔を出した私を気持ちよく歓迎して下さいました。工場や社屋は近代的な建物に変わっており、会議室は超大企業のそれ並みに大きく綺麗で、隙間風に震えながらアセスメントをした昔が懐かしく思い出されました。「おかげさまで業績は好調です」「米国出張が多くて忙しいです」と近況を一通り教えて下さった後、社長はさらりとおっしゃいました。「アセスメントのおかげで困った人が入ってこなくなりました」

 

「今、何の問題も無いのだな」と私は思いました。ホッとした気持ちと「もうこの会社に来ることもないかもしれないな」という寂しさを胸に、私は帰途に着きました。

 

例年なら繁忙期なのに仕事がすべて延期になってしまった今年の春、私はなぜか急に思い立ってあの社長に近況伺いのメールをしました。社長はすぐに返事を下さいました。「先週御社のホームページを拝見し、アセスメントを立ち上げた頃のことや現在のことを色々と考えていたところでした」 少し鳥肌が立ちました。緊急事態宣言が解かれるのを待ち焦がれて訪問した私を迎えてくれた社長は、二年前と同じように歓迎して下さいましたが、前回より話したいことがたくさんあるように感じました。間もなく社長から「若手にマネジメント職候補が薄いんですよね」という問題意識が示され、「じゃあ探してみましょう」ということになって、四ヶ月にわたるプロジェクトがスタートしました。

 

早速、若手社員の「社内アセスメント」を実施することになりました。対象は採用アセスメントの内製化後に入った人たちばかりなので、内製化の成果が検証されることになりましたが、社長の評価のとおり「困った人」はいませんでした。そこまでは想定内でしたが、私たちもめったにお目にかかれないほどの高い潜在能力を秘めたダイヤの原石があんなに見つかるとは思いませんでした。今すぐマネジメント領域で十分機能するであろうその人たちの中には、日々現場で粛々と作業をこなす高卒の女性社員も数多く含まれていました。

 

社長のテーマであった「若手のマネジメント職候補」は、思いがけないところにたくさんいました。しかしいくら卓越した潜在能力を持っていることがわかったと言っても、経験も知識も持たず社歴も浅い人たちです。普通ならば「将来が楽しみだね」の一言で終わってしまいそうなところですが、この社長はそうではありませんでした。

 

社長は、その原石たちが早くマネジメント領域で輝けるようになるための具体的な人事計画を描き切り、私に熱っぽく語って下さいました。社長は、自分の頭で考え自分で動くことができる逸材たちに、その能力をいかんなく発揮できる環境を与え続けることを決めたのでした。「マネジメント能力」という天賦の才が希少価値を持つことを熟知する人だからできる即断即決でした。アセスメントへの理解度が高い社長は、マネジメント演習の中で光り輝く若い社員たちを観て強い衝撃を受けました。アセスメントで見えたものとその人たちの日常とを繋げて考えることができたからこそ、社長は躊躇なく組織再編を決意したのだと思います。

 

その逸材たちの中から新たな社内アセッサーも選ばれ、私たちは急遽その人たちに対して「アセッサー養成講座」を数回にわたって実施することになりました。「真面目さ」「一生懸命さ」「素直さ」「熱量」「理解力」「腹の括り」「向上心」・・・、どれを取っても超一級品の人ばかりで、私たちは開講中ずっと圧倒され続けました。本当に幸せな時間でした。

 

例年であれば海外を飛び回っているはずの社長に、今年は時間の余裕があったこと。

繁忙期だったはずの時期に仕事が無くなった私の頭の中に、少しばかりの余裕が生じたこと。

 

新型コロナがもたらした二人の「余裕」が絡まなければ、私にとって夢のようだったこの四ヵ月はありませんでした。「困った人が入ってこなくなった」という社長の認識が「若手にマネジメント職候補が薄い」という問題意識に進化したのも、超多忙だった日常がストップし、足許を見つめなおす時間が与えられたからなのでしょう。

 

アセスメントの日の夜は、必ず社長と酒席と共にしました。話題はいつも「せっかく預かった素晴らしい能力をどうやって生かしていこうか」ということに尽きました。昔に比べて少し酒が弱くなった感のある社長は、毎回酔いが進むとリュックサックを背負うようなポーズを取り、会議室で見せる顔とは違うフニャっとした優しい笑顔で呟きました。

 

「また、背負うものが増えましたぁ」

 

そんな風に考える経営者を最近あまり見ないので、その言葉を聞く度に私の酔いが少し醒めました。

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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