╂ 処方箋の解説 ❾ ┛ 四年目の壁(後編)

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大企業のしくみに限界が?

そんなある日、誰でもその名前を知る某大企業Ⅹ社の人事部長から声がかかったのです。「うちの新卒採用を見直したい」とのことでした。

 

「新入社員が配属先で特に不評だとか、早期離職が多いとか言うことは無いです」

(そんな大きな会社を辞めたら損だから誰も自分から辞めないよね)

「ただ、職場から入る問題行動や機能不全の報告が入社四~五年の社員に関するものに集まっていまして。初めて監督職に就く時期なのですが、そのタイミングで問題が一斉に露呈するというのは、何か採用に問題があるのではないかと思うんです」

(・・・?)

 

「やっとこういう会社が出てきた」と思いました。私が大企業の人事に対して抱いていた「学歴や経歴が華やかな人をいかにたくさん集めるかに一生懸命で、人を見極めることに本気で頑張ろうとなどしていない」「採用予定数をクリアしたらその時点で目標達成!採用された新入社員のその後に興味はなく、採用の質は検証されない」という誠に失礼な先入観が少し溶けた気がしました。

 

いくら大企業の社員であっても、主任やリーダーといったマネジメント職を任命されるようになると、さすがにマネジメント領域に足を踏み入れずにはいられなくなります。部下の作業上の問題を少し掘り下げる必要が生まれたり、またより本質的な問題にアプローチするために課題形成を求められたり、また、部下を指導したり部下から相談を受ける際の対人場面に対応したりする時、それまで大企業のしくみに甘え、与えられた作業領域で持ち前の学力を頼りに情報を動かしていた人は、とたんにどう動いていいかわからなくなります。大企業で多くの割合を占めるであろう「学力はあるけれど思考力に欠ける人」にとって、初級マネジメント職における日々は試練の時となるはずなのですが、そこで問題が顕在化されにくい会社はその後、思考停止の管理職を大量に生み出すことになり、結果として会社の体力が奪われていくことになります。

 

Ⅹ社では、その時多くの問題が顕在化されたのでしょう。そして人事部長は、そこに強い問題意識を抱いたのでしょう。多分Ⅹ社が陥っているのであろう構造的問題について人事部長に告げ、私たちはⅩ社の採用支援を行うことになりました。大企業に長く身を置いてきた人事部長が、大企業が誇るしくみの限界に向き合おうとするに至ったことには、正直驚きを感じます。もちろん、この人事部長の感性や当事者意識が卓越したものであったからこその問題提起でありましたが、もしかしたら、しくみの恩恵と弊害とを折り合わせてきた長年のバランスが崩れてしまうほど、多くの若者の中で何かが変わってきていたのかもしれません。

 

変革への挑戦

その後急に「大企業」からのお問い合わせが増えることになるわけですが、その仮説はあながち見当はずれではなかったようで、ご相談内容は異口同音に「最近、急に初級マネジメント職に就く社員に元気がなくなった」というものでした。そうやって大企業と仕事をする機会を増やす中で、大企業の特性を映す臨床も増えてきました。既存の採用プロセスのどこに採用アセスメントを挟ませるのか、アセスメントの対象は何名くらいにするのか、採用基準はどうするのか、などは各社の採用ポリシーやマンパワーによって様々でしたが、中小企業と同様とまではいかないまでも、それなりのリスクマネジメントが機能するよう、どの会社でも工夫をこらしていました。短期間で目を見張る変化が現われた会社、まだまだ形になるのはこれからの会社、など、成果の見え具合もやはり様々ですが、どの会社からも報告が入る共通の「初年度の事象」があります。

 

まずほとんどの会社からこう言われます。「採用アセスメントを通過した学生に接した役員面接(最終選考)の試験官の多くが、前年までの学生とタイプが全く違うことに違和感を示す」思考する学生は、概ね過剰なアピールを苦手とするので、それに慣れてしまった試験官にとっては物足りないのでしょう。そしてもう一つは、「配属された新入社員と前年までに採用された先輩たちとの間に、多かれ少なかれ化学反応が起きる」という興味深い事実です。アセスメント導入初年度に採用された新入社員は少しだけ苦労するかもしれませんが、後輩たちが徐々にスタンダードを変えていってくれるので大丈夫です。

 

いかなる変革にも多少の「産みの苦しみ」は付き物であり、そこを抜けると、社内に「しくみを作る側の人」が少しずつ増えてきます。

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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