部下の心を受け止める

部下の心を受け止める

その昔、会社に入って間もなく香港に赴任することになった私は、ぶっつけ本番で営業の現場に放り込まれることになりました。「バブル前夜」の当時なので、入社直後の新入社員集合研修は数か月に及びましたが、業務の現場で実践的な教えを受ける時間はありませんでした。

 

香港支社の日本人社員は、支社長と営業マネージャーと私の三人だけで、その他は現地人社員でした。私は二人目の日本人営業社員として呼ばれたわけですが、ついこの間まで百人を超える同期の新入社員たちと集合研修を楽しんでいた私にとっては、あまりにも寂しい環境に思えました。

 

支社は多忙を極め、何も知らず何もできない私も、当然のように即戦力とみなされました。マネージャーから仕事の概要を教わると、赴任日の翌日からは一人で動くことが求められました。「外回りから戻ると支社長室に直行し、支社長の前にちょこんと座って報告をする」という私のルーティンは、その日に始まりました。そうしろと言われたのか自発的にそうしたのかもう覚えていませんが、香港支社の社員が増え支社が街の外れのオンボロビルからビジネス街の立派なオフィスビルに移転しても、私が現地人の部下をマネジメントする立場になっても、その習慣は変わりませんでした。

 

何か特別なことや新しいことを教えてもらった記憶はありません。でも、支社長はいつも私の話を「ほぉぉっ」とか「やるじゃん」とか相槌を打ちながら楽しそうに聴いてくれました。それが嬉しくて私がつい長居をしてしまっても、支社長は嫌な顔一つせず付き合ってくれました。そのおかげで、私は、厳しい労働環境の中でも精神的に安定した日々を送ることができました。

 

私が赴任してすぐ毎日支社長の前に座ったのは、多分、未知の場所で未知の仕事に取り組むことが不安でしかたなかったからなのでしょう。でも支社長がいつも私の話を肯定的に受け止めてくれたので、私はその都度「私がやっていることは間違っていないんだ」と確認でき、それが繰り返されることで未知領域における目標設定が安定してきたのだと思います。

 

あの頃支社長が自分にしてくれたことこそが、究極の社員育成であり部下指導であったのだと、私はずっと思っています。だから、管理職になり経営者になった私は、同じことを部下にしてあげることにこだわってきました。あの頃の支社長のように相手の心を受け止めきれていたのかどうかはわかりませんが、少なくても部下に向き合う時間を一生懸命作ろうとしてきたという自負だけはあります。

 

この春は、初めての新卒社員を迎えようとする経営者の皆さんから、新入社員の育成や指導について数多くのご相談をいただきました。でも私は「なるべく話を聴いてあげる時間を作ってくださいね」という答えしか持ち合わせていません。どんな小さな会社でも、経営者にそれを貫く意識と技量さえあれば、新卒採用への壁は無いと思います。

 

要件を決めて粛々と進める形のコミュニケーションでは、相手の心を十分に受け止めることはできません。そのあたりを理解できない経営者から、「コロナが明けてもずっとリモートオンリーでいいよね」などという声が聞こえてくる今日この頃です。

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に憧れの関西に移り住み、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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