芝大門あたり【復刻版】ー2009年11月17日公開ー 

芝大門あたり【復刻版】ー2009年11月17日公開ー 

明日から「二週間で社内アセスメント五本」の強行軍が始まる。今週はアセスメント会場に近い「芝パークホテル」に宿泊する。

 

このホテルは東京タワーに近い。僕は東京タワーが大好きで、自然とそこに吸い寄せられる傾向がある。特に夜の東京タワーの、あのオレンジ色は心を穏やかにときめかせてくれる。時々イベントなどで違う色にライトアップされることもあるが、やはりあの「オレンジ色」が最高だと思う。

 

雨上がりの霧の中で浮かび上がる今日の東京タワーは、実に幻想的 …

 

 

 

 

「芝パークホテル」を知ったのは、今から十六年前の春だったと思う。当時担当していたオーストラリアの会社の社長が来日し、僕がアテンドした。夕食を終え、その社長に連れてこられたのがこのホテルだった。

 

「ラグビーをやってるのにこのホテルを知らないのか … 」

 

ワラビーズ(ラグビーのオーストラリア代表チームの愛称)の国からやってきた彼は、このホテルが昔からラグビー関係者との繋がりが深いホテルであること、世界中の代表チームがこのホテルをよく利用すること、そしてホテルバーの名前が「フィフティーンズ」であること、を教えてくれた。

 

「フィフティーンズ」のウェイティングルームは、ラグビー関係の写真やグッズが壁一面に飾ってあった。やはり英国人ラガーで溢れていた香港のバーと同じ匂いがした。スコッチを飲みながら、笑顔の優しい初老の紳士とラグビー談議に夢中になったその夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

その後、僕はちょくちょくこのホテルを利用するようになった。ひとりで格好付けながら飲みたくなる夜はここに来て、ロックの氷を指でかきまわした。少し危ない。不惑倶楽部で秩父宮での大きな試合に出場する前の日には、必ずここに泊まった。「フィフティーンズ」であの日と同じスコッチのグラスを傾けながら明日の試合に向けて気合を入れるために。

 

 

 

今日も、明日からのアセスメントに向けて鋭気を養おうと、いつもの席に座る。

 

そして今日も、店内では「体の大きな」外国人紳士たちが、日本人にはなかなか見られない開放的な笑顔を振りまいていた。

 

閉店間近までその空気を楽しんだ後、もう一度東京タワーを拝みたくて外へ出た。

 

 

 

腕時計が十二時を指す。オレンジの灯がろうそくの炎のようにフワッと消え、そのあとを湿った暗闇が覆った。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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