╂ 当社の歩み ┛ その1  アセスメントとの出会い③

╂ 当社の歩み ┛ その1  アセスメントとの出会い③

最近では少し知名度も上がり、アセスメントの演習以外に研修などでも利用されることが増えたインバスケット演習ですが、当時はアセスメントを受けた人の目にしか触れることがなかったので、世の中のほとんどの人にとって、もちろん私にとっても、未知のものでした。

 

グループ討議が終わって興奮気味の私は、今度は参加者全員が一同に集められた大部屋の一角で、「今度は何をやるのだろう」と次の展開を待っていました。まだ1時間しか経っていないのに、グループ討議をやる前の心持ちと比べて、この違いは何なのだ w と、自分の変節を可笑しく思いました。

 

インバスケットが配られました。分厚い封筒の中に、たくさんの書類が入っていて、その分量と2時間という制限時間との折り合いを考えるだけで、相当なストレスでした。でも、「さっきのグループ討議では、集団という要素と課題の難しさがストレスになったけど、今度は時間と分量か」などと変に冷静に分析をかけたりして、とにかくその場を楽しんでいたように思います。その時既に私の中で、採用選考に合格することへの期待は消えていたのですから、気楽なのも当然です。

  

インバスケットは、「制限時間内に未処理箱(英訳するとインバスケット)に山積みになっている案件を処理する」ことを求められる演習課題です。

 

どこか(遠くの支店など)の管理職が病気か何かでいなくなる

主人公(受験者)にその後任のお鉢が回ってくる

「急に言われても、俺、来週から海外出張だよお」という訳で、すぐには赴任できない

「出張に出る前に赴任先に2時間だけ(インバスケットの所要時間です)立ち寄って、休みがちだった前任者の未決済箱にたまっている未処理案件をできるだけ処理してきてよ」という無理難題を上司から突き付けられる…

 

インバスケット演習の前提として設けられているのはだいたいどこでもこんな設定で、あの時もこんな感じだったと思います。「出張中はメールも電話もできないから、その2時間で誰も困る人がいないような処理をしてね」という、突っ込みどころ満載の設定もあるのですが、頭が興奮状態であったためか、全く違和感を抱かず、私らしくもなく極めて素直に課題を受け入れたのでした。

 

 2時間はあっという間に過ぎました。終わった時、興奮状態は2時間前よりさらに強くなっており、もはや躁状態でした。その時点で、自分の中では合格の可能性は消えていましたが、多分そんなことはどうでもよかったのだと思います。そこに落ちてしまったら、アセスメントとのご縁も遠ざかってしまうわけですが、そこに考えが及ばないほど頭が痺れていたのでしょう。自分なりに思い切って「にんげんビジネス」の世界に足を踏み入れて以来ずっと求めていたものが目の前に現れたことが、もの凄く嬉しかったのだと思います。

 

試験会場を後にした私は、当時住んでいた長野県の松本へと帰途についたのですが、いつもは乗車後即爆睡のあずさの中でも、目がらんらんと冴えて一睡もできずじまい。家に帰ると、奥さん相手にアセスメントの凄さを延々と語り続けました。いつもはまとわりついてくる当時4歳の娘が、異変を感じたのか部屋の隅で私を遠巻きに眺めていたのを覚えています。

 

 ところで、私は、あのインバスケットの案件を半分も処理できませんでした。案件の数が24~5件あったように思うので、10件ちょっとしか手を付けなかったということになります。初見情報への対応が苦手な私は、設定を納得いくまで読み込み、全体観を持てるようになるまで、かなりの時間を要してしまいます。あの時も、実際に鉛筆を動かすまで、30分くらいはかかったのではないでしょうか。

 

この「のろまである」という特性も、未処理案件を大量発生させた要因ではありますが、それだけではありません。あのインバスケットに取り組んだ私は、自分の価値観に基づく優先順位が高いものだけに処理を施したのです。私は、「人の問題」に絡む事象には極めて敏感に反応し、その本質的問題解決に向かいました。人として逸脱した言動を見せた部下には、メモ3枚を連ねて辛辣な言葉を交えた指導を残したりしたのが、少し気恥ずかしく思い出されます。そして、一方、自分の中で重要性が高まらない(興味が湧かない)案件については、手付かずのまま放置したのでありました。

 

さて、このような処理スタイルはどう評価されるべきなのでしょうか。「安直な手続きに走らず、マネジメントの主体者として自力で問題解決に動いた」という好意的な評価も多分存在し得ると思います。一方、未処理案件を多量発生させると、おそらく誰かが迷惑をこうむることになるので、全体利益を希求するなら、漏れなく手を付けるべく努力するのがあるべき姿とする考え方もあるでしょう。自分で決めた優先順位に客観的合理性が認められるのか、という点も問われるところです。自分の興味と関心に任せて注力する行動だったとしたら「自己中心的な人間」のそしりも免れないわけですが、今考えると「微妙だなあ」と思います。

 

いずれにしても、自分の行動の方向性を自分で瞬時に選択することを強いられ、その選択を観察者がしっかりと見届けるところに、インバスケットの凄味があります。その選択には、それまでの自分の仕事観や生き様がダイレクトに反映されてしまうところが怖いところであり、私はそこに強く惹かれたのでしょう。

   

これが、私のアセスメント初体験です。今から18年前のあの日、私は、今毎日のように取り組んでいる「採用アセスメント」を、受ける側の立場で経験しました。そしてその日、人を見抜く手法を喉から手が出るほど欲しがっていた当時の私は、初めて出会ったアセスメントに、その可能性をはっきり見い出したのだと思います。

 

18年前の事なのに、これだけはっきり詳細までを覚えているということに驚いてしまいますが、それだけ私にとって衝撃的であり記念すべき1日だったのでしょう。その後生涯の生業とするものに出会った日なのですから、当然と言えば当然ですが。 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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