╂ 当社の歩み ┛ その1  アセスメントとの出会い①  

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人材紹介会社の担当者:「どんな会社を希望されますか?」

 

私:「上場している大企業ならどこでも」

 

担当者:「・・・・・・」

 

31歳の時、5年間駐在した香港から帰国した私は、すぐに会社を辞め、その後転職スパイラルに巻き込まれることになります。冒頭の私のセリフが、その頃の私の転職スタンスです。とても30男の言い草とは思えませんね。

 

希望通りの大企業を何社か渡り歩き、つまらなく、情けなく、腹立たしい思いをし尽くした頃、私は人生で初めて精神的自立を果たします。あれほど強かった見栄を断ち切り、周囲の猛反対をシカトし、従業員10人余りの人材関係の会社への入社を決めたのでした。世間からの見られ方に執着する自分にけりをつけ、ずっと封じ込めてきた「にんげんビジネス」への思いに初めて素直になった瞬間でした。

 

その世界で仕事をするようになると、「人を見抜く手法」や「人の能力を体系的に表現するしくみ」を欲する気持ちが日に日に強くなりましたが、それらを手に入れる術はなかなか見つかりませんでした。そんな数年間が過ぎたある日、ある人事系コンサルティング会社の中途採用求人広告が新聞に載っているのを見つけました。当時の私は、コンサルタントと聞くと胡散臭いと決めつけるような人間だったのですが、何故かその求人には興味を惹かれ、すぐに応募書類を書いて送ったのでした。

 

選考試験の日、選考会場となる本社ビルに入ったとたん、大量の封筒を抱えた社員とすれ違いました。そして、その封筒の端に書かれていたグループ討議」の文字が目に入った途端、テンションが急降下するのを感じました。私は、何を隠そう、グループ討議というものが大嫌いでした。いやグループ討議が、というよりも、参加型のセミナーや研修やワークショップなどで、いろいろなことをやらされるのがたまらなく嫌だったのです。

 

「グループワーク」や「バズセッション(即席のグループでがやがや話し合うこと)」「発表」

 

のような取り組みを強いられて凄く嫌な気持ちになる経験を何度か繰り返す中で、そこに巻き込まれるのを徹底的に避けるようになりました。「自分たちの描く段取りやストーリーの一部として受講者に参加させたはいいが、その参加に大した意味を持たせることもできず、やらせただけの茶番で終わる」という主催者や講師の傲慢に触れるの不快だったのだと思います。

 

しかし考えてみれば、採用試験のツールを嫌だの何だの言う方がよほど傲慢なわけで、「このまま帰ったろか」という衝動を何とか抑え込み、応募者の波に身を委ねるようにして、会場となるセミナー室に歩を進めました。セミナー室の扉を開けると、大きい部屋の中に、7~8か所の人の集まりができていて、それぞれの集団が、グループ討議の実施単位になるようでした。

 

扉に一番近いところに位置するグループの右から2番目の席に、私は座りました。メンバーが何人いたのかよく覚えていないのですが、多分5~6人だったと思います。何故かⅤの字型に座らされた討議メンバーたちの前には、幹部社員と思われる2人の試験監督が座っていました。

 

2つの案件が書かれた紙を渡され、それらを読み込むための準備時間を経て、討議は始まりました。試験官の「始めてください」という事務的な声で突き放された私たちは、どうしたらよいかわからなくなり、一瞬、場に膠着が生まれました。その時「第一声を発した者が採用されるに違いない」という考えが私の脳裏をよぎったのですが、次の瞬間、私の右隣(一番右端)の男性が、「では、始めましょうか」と元気に口火を切ったのです。「終わった・・・」開始後わずか数秒なのに、私の中では敗戦が確定してしまいました。その後も彼はてきぱきと討議を仕切り、他のメンバーの中にもその仕切りに頼るような空気が生まれ、彼の独り勝ちの様相はどんどん色濃くなっていきました。

 

開始早々、勝ち目の無くなった討議のはずなのに、何故か私は一生懸命課題に取り組んでいました。大嫌いなはずのグループ討議に、いつものような醒めた目を持ち込むことなく夢中になっていた自分を、今でも不思議に思います。基本的に人からの見られ方を気にする「格好つけ」の私なので、人に見られている討議であれば、人に見せるための言動を繰り出すことに注力するはずだったのですが、あの時の私は間違いなく2人の試験官の存在を認識していませんでした。

 

人に見せるための行動を封印し、与えられた課題の解決に力を尽くすことを選択した私は、実は偉い奴だったのか? それとも、その問題解決が単に自分の興味や関心とずばり絡んでしまったに過ぎず、その尽力はやはり人のためでなく自分のためだったのか? 

 

今となってはわかる術もなく。

 

うーん、あの時のビデオを観て自分をアセスメントしてみたい。       

 

(続きます)

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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