「根拠は?」
お客様からの質問で最も多いのではないかと思えるのが、「社員の思考力を高める教育ってあるのでしょうか」というものです。「思考しない人は、その人の中で深く根付いている諸々の理由で思考のスタート地点に着こうとしないのだ」ということを知っている者としては、この質問に対するすっきりした正解を用意することができず、いつも心苦しく思います。ただ、心の状態が思考できる状況にあり思考する意欲を持つ人に対して、情報処理や論理構築を上手にできるように訓練したいということであれば、それなりの方法はあると思います。その中でも非常にシンプルな思考力強化法を、私は好んで提案しています。それは、「上司が部下の話に根拠を求め続ける」というものです。
私は、サラリーマンをやっていた頃の管理職時代、部下の考え方に向き合う時にそこに少しでも合理性に怪しいところがあると、敢えて「根拠は?」と尋ねるようにしていました。優秀な部下は思考を逆回転させ「自分は何をもってそう思ったのか」を思い出そうとしてぐっと熱量を高める様子を見せてくれましたが、そうでない部下はどうしていいかわからなくて苦笑いを浮かべていたのを思い出します。思考プロセスをきちんと踏もうとしていればこそ来た道を辿ることもできますが、そもそも思考せずに発信するのが当たり前の人には、「根拠は?」という質問自体が無理筋となってしまうのだということを、その頃知りました。
思考は、情報を集め繋げて概念を導く取り組みなので、そこでできあがった概念は、複数の情報に基づいたものであるはずです。しかし、人はいつも使う情報を一つ一つに認識して積み上げるわけではないので、時にはどんな情報を使ったのかを頭に留め置かずに概念を導いてしまうこともあります。このような情報処理が「感覚的」と呼ばれるのだということは、前に述べました。日常の仕事場では、複雑な状況で時間に追われながら頭を使うことが多いので、どうしてもこのような感覚的な思考に走りがちになります。しかしあまりそのスタイルに慣れてしまうと、次第に思考プロセスが雑になり、使う情報の質量に安定を欠くことになります。そこで時には外圧によって思考プロセスの開示を強いられることで、自分が限られた情報で思い込みや決めつけに走っていないか、を再確認できます。これが思考のメンテナンスであり、思考訓練にもなるのです。
具体と概念
思考は、具体を概念化する情報処理なので、概念化とも言い変えられます。具体は、直接知覚し認識できる物事で、それらの物事に共通して言えることを示したものが概念です。具体はその具体以上の意味を持ちませんが、概念には本質的な意味が伴います。
例えば、今日、A課長の部下であるBが待ち合わせの時間に遅れたとします。「遅れた」という具体的事実に触れたAがその情報の中だけできることは、「もう遅れるなよ」と注意することくらいでしょう。「時間に遅れた」という具体には、当然ながら「時間に遅れた」という意味しか伴わないからです。しかしながらA課長は、「そう言えば…」と、「Bは同じミスを繰り返す」「仕事への取り組み姿勢にムラがある」「メールの返信が遅い」などのBの日常の行動を集めることができました。そして、それらも行動はすべて「自己中心的で人への興味が薄い」というBの特性に原因があることがわかりました。
ミスを繰り返すのは自分のミスで人に迷惑をかけているという自覚が無いからであり、仕事にムラがあるのは人から与えられたミッションや前提への意識が薄いからであり、メールの返信が遅いのは人の都合や心情に無関心だからであって、人との約束への意識の低さが生んだ「時間に遅れる」という行動とすべて根っこが繋がっているのです。いくつかの具体を統合して浮かび上がらせた「自己中心的である」という概念には、Bの本質を映す「意味」が生まれています。今後A課長は、Bの自己中心性を把握した上で、リスクマネジメントの意識を強めた指導をすることができます。具体を概念化することの意義が、ここにあります。
具体と概念を行ったり来たり
このように具体を概念化することは、物事の全体観を把握して本質を知るためには必要不可欠ですが、一方で、生産的に仕事を進めるためには、概念の世界だけに留まるのではなく、具体に降りて行って、現実的な対応に汗をかくことも必要になります。A課長はBの本質を知りましたが、それを知ることがゴールではなく、これから日々Bが起こすであろう細かい問題に対して対応や指導の手を休めることはできません。Bの傾向を知っているのでBの行動は想定の範囲と言うことになり、戦略的な指導が可能になることは間違いなく概念化の価値と言えるでしょう。しかしながら、A課長はこれからも、Bの遅刻や意識の低い仕事に向き合い続けることになります。
具体の中ばかりで動いていると、物事の本質を知らないままにその場しのぎを繰り返すことになりますが、概念の中に留まっていたのでは、物事が実際に動きません。したがって、職位や年齢に関係なく仕事をする人には、具体と概念との間を行ったり来たりすることが求められます。実効性の高い思考力(概念化能力)を有する人は、一つ一つの具体と向き合った上で、それらを積み上げ概念化するので、いつでも概念の世界から具体に立ち戻ることができるのです。
しっかりとした具体の詰まった概念を導ける人なのか、概念と具体を行き来できる人なのか、を見極めるために、「根拠は?」という質問は極めて有効だと思います。採用面接でこの質問を連発することで、「思考しない学力秀才」の化けの皮をはがすことができるかもしれません。