大阪の入り口【復刻版】-2008年9月13日公開-

大阪の入り口【復刻版】-2008年9月13日公開-

お昼過ぎに名古屋から大阪に移動。

 

僕の第二の故郷、大阪であるが、夜まで仕事が入っている今回は誰と会う約束もしていない。仕事を終えてまずとりあえず梅田へ。何も考えずとも足は「松葉総本店」へと向かう。阪急梅田駅の新梅田食道街にある串揚げ屋さんだ。

 

大阪で串揚げというと「新世界」なのだが、なかなか行きにくい場所なので、串揚げを食べたい時はだいたいここへ来る。ここ数年は、まず大阪に来た挨拶がわりにここの暖簾をくぐることが多い。

 

 

 

いつもカウンターの前には老若男女が溢れかえっていて、皆口角泡を飛ばしながらしゃべり、そして酒をあおっている。飲んでしゃべる大阪人の集団… これは結構怖い。が、ここ大阪では気合で負けては旨いものが食えないので、体を半身にしてカウンター前の群集に割り込む。

 

ようやく自分の場所をキープして、生ビールを注文。ここは「通し揚げ」ではなく、カウンター前のケースに各種串揚げが無造作に放り込まれている。それを勝手に取って食べる。値段によって串の長さが違い、後から店のおっちゃんがそれを計算してお勘定、という具合だ。

 

「ソースの二度付け禁止」は、慣れないうちは緊張した。半分かじったものにもう一度ソースをつけたくなる流れを止めるのは、強い「認識の力」が必要である。

 

独自のしくみやしきたりをまわりの関西人たちのように何食わぬ顔でこなそうとするうちに、昔、大阪の住人として生きていた頃の生活感が少しずつ蘇って来る。

 

甘くて軽い衣の後味に後ろ髪を引かれながら今日は早めに「おあいそ」 串揚げ五本と生ビールで、合わせて千円かからない。それでも大阪では「立ち食い串揚げ屋としては少し高い店」という位置付けだという。

 

 

 

大阪入りの「儀式」を済ませ、お腹を少し落ち着かせた僕は、今日の夕食処を探しに阪急東通へ向かった。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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