不思議な店【復刻版】-2008年9月12日公開-

不思議な店【復刻版】-2008年9月12日公開-

今日名古屋に入った。仕事が終わりホテルにチェックインして、気がついたらかなり遅い時間になっていた。猛烈に腹が減っている。この前のおばちゃんのところへ行こうかと思ったが、もう電車に乗ったりするエネルギーは残っていなかった。

 

仕方がないのでホテルの周りで何か… と思ったが、駅から遠いそのあたりはひとりで気楽に入れる店が少なかった。随分歩き回り、やっと見つけた一軒が小さなお好み焼き屋さん。明日大阪に入るので、お好み焼はそれまでとっておきたかったのだがもう空腹と疲れも限界だったので、そこに入った。

 

いい感じのおねえさんに迎えられて店の奥に進むと、カウンター越しの鉄板前にはもっと感じのよいマスターがいて、「どうぞどうぞ」とひとりなのに四人がけのテーブルに通してくれた。

 

 

 

機嫌よくメニューを手に取り、「やっぱり『お好み』は明日以降にとっておこう」と、当たり外れが少ない「焼そば」と「とんぺい」を生中と一緒に頼んだ。

 

コンビニで買ってきた日刊ゲンダイをお供にビールを飲んで一息ついていると、さっきのお姉さんがまず焼そばを運んできてくれた。

 

一口食べてみる。「エッ!?」 何かの間違いかと思った。汁のないインスタントラーメンにただ塩をふったような味、だ。動揺している僕にナイスなタイミングでマスターの声が飛ぶ。

 

「どう?」「美味しいでしょ」

 

さらに動揺した。「は、はい」と言っってしまったような気がする、が、よく覚えていない。店の人とのおしゃれな会話に憧れる僕としては、いつも何か気のきいたことを言いたいのだが、今日はどうにも対応がとれなかった。

 

 

 

これ以上話しかけられると精神的な痛手が大きすぎるので、日刊ゲンダイに没頭する、ふりをした。

 

作った人の前で新聞を読みながら食べることに、どうにも心が痛んだが、もし「どんな風に美味しい ?」などと聞かれたら多分パニックになってしまうだろう、と思い、そのまま新聞に目を落としっぱなしでいた。日刊ゲンダイを買ってきてよかった。

 

 

 

そうこうするうちに、とんぺいが来た。とんぺいとは豚肉を柔らかい卵で包んだもので、とてもシンプルな料理である。そうそう変なのを作れるものではあるまい、と、塩味インスタント麺を一本ずつすすりながら自分に言い聞かせていたのだが… 作れるのだ。僕が甘かった。「いりたまご」の塊が半分以上焦げていた。

 

そこにマスターの声。「お客さんちょっと元気ないからさぁ。でっかいキャベツいれといたよ!」

 

本当にいい人だ。でも僕の元気がなくなったのは、この店に来てからだ。見るとやはり半分焦げた大きなキャベツが卵に埋もれていた。言われるまでキャベツと卵の見分けがつかなかった。ちなみに世間的にはとんぺいにキャベツは絶対に入らない。念のため。

 

 

 

 

「ゆっくりしてってね。何時まででもいいから」このマスターは終始爽やかだ。不自然な愛想のよさではなく、人柄が滲み出ている。今度は向こうの団体のテーブルでお客さんにビールを注がれながら楽しそうだ。お客さんも楽しそうだ。その間をかいがいしく動きまわる奥さんの好感度も高い。いい店だよなぁ、味以外は。 でも、そもそも何でお客が多い?ここは味に関しては治外法権なのか?

 

僕はプロにお金を出す以上は、ちゃんとしたものしか食べたくない。美味しくないものには本当は一銭も払いたくない、のだが、今日はなぜか全然怒りを感じなかった。むしろ好奇心すら喚起された。こんなことは初めてである。出張の最大の楽しみである「食事」を一回無駄にされたのに、この寛容さはどうしたことだ。

 

 

 

毒気をも抜かれてしまうような料理とその料理を囲む皆の笑顔… もしかしたら僕はマニアックな倒錯の世界を覗いてしまったのかもしれない。不思議な名古屋の夜。

 

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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