ドーナツ【復刻版】-2009年1月28日公開-

ドーナツ【復刻版】-2009年1月28日公開-

夜、代々木で食事をし、その後サザンテラスを抜けて新宿駅へ向かおうとしたら、いつものクリスピークリームドーナツの行列が見えない。すっかり見慣れた人並みがなくて、景色が違って見える。まだ、営業中だ。

 

いつも興味深々で横目で見ていた「二時間待ちの別世界」が、今、手が届くところにある。メシをたらふく食ったばかりの僕だったが、ふらふらと店内に吸い寄せられた。

 

ドーナツを二つとコーヒーを注文する。なぜふたつ? 腹いっぱいのくせに。 ひとつだけ注文するのはなんかプライドが許さんのよね。どんなプライドかは、それはよくわからない。

 

カウンターで待っていると、お兄さんが「今一番人気の○○○(忘れた)でぇす。」と、ドーナツを一個手渡してくれた。(これ、くれる… ってこと?)、一瞬事態が飲み込めなかったが、「並んでる人にドーナツをくれる」というサービスがあることを前に聞いたのを思い出し、「これは食べていいのだ」と理解した。

 

二個の注文に一個のサービスって…

 

ドーナツが三個になってしまった 🍩 🍩 🍩

 

 

 

二階に上がり、カップルだらけの店内で一人寂しくドーナツの試食。確かに美味しい。食感も官能的だ。が、これ買うのに一時間も二時間も並ぶか…と言われると   ((+_+))

 

ちなみに僕はドーナツが好きだ。小さい頃家でよく食べた「ドーナツミックス」で作ったドーナツの、あの「油の味」への憧憬には根強いものがある。

 

最近食べたのでは、東名高速下り線の海老名SAに入っている「海老名ドーナツ」が旨かった。一個300円以上するでっかいやつだが、最近食べ慣れてしまったドーナツの味とは一線を画した「いつか食べた味」である。「NYスタイル」なのだそうだ。ドーナツプラントというチェーン店のひとつらしいのだが、ここの味は他の店舗のものと違う、様な気がする。

 

 

 

 

僕とドーナツとの関係が極めて根太くなった時期がある。大学のラグビー部で監督から「干されて」しまい、レギュラーを取るのが絶望的に思えた大学三年の春、それまでラグビーしかやってこなかった生活が急に馬鹿馬鹿しくなって、なぜか京都のミスタードーナツでバイトを始めた。

 

どこでもいいから新しいコミュニティーに属したかった。また、体育会とは対極の思い切り「ちゃらい」世界に身を置きたかった。

 

週三~四回、練習を終えてから夜十一時に厨房に入り、ドーナツを揚げる。夜中の厨房にはいつも何人かの非番のバイトがたむろしていた。差し入れてくれた牛丼やフライドチキンを食べながらくだらない話でわいわい盛り上がる「空虚な楽しさ」は、それなりに僕を癒してくれた。

 

仕事を終えても厨房に居残ってミニスカートの「早番ギャル」にちょっかいを焼く時、バイト仲間とのボーリング大会や飲み会に参加する時、心の隙間を十分に埋めたような気分に浸れたのを、よく覚えている。

 

結局、吉野屋の時と同様に練習と徹夜バイトの無謀な日々に身体が耐え切れず、僕のミスド生活は半年あまりで終わった。

 

 

 

 

その後、今に至るまで、やはり吉野家同様、ミスドは僕の生活の中にある。転職スパイラルに陥った中で何十通という履歴書を書いたのも、キャリアパスに迷って資格取得に活路を求めた時の勉強場所も、コンサルティング会社に在籍していた時ロボットのようにアセスメントのフィードバックレポートを書いたのも、なぜかいつもミスドだった。

 

二十五年も前に空虚な心を埋めようとした場所の匂いや雰囲気がロイヤリティーとして僕の中に染み付いており、それが、ちょっとしんどい時に僕をミスドへと向かわせてきたのかもしれない。

 

考えてみると純粋に「ドーナツ食いたい!」と思ってミスドに行ったことって、そんなにないなぁ。申し訳ないけど  <(_ _)>

 

 

 

 

純粋にドーナツを食べるだけの目的で入った今日のお店で、僕は黙々と「三個」のドーナツを食べた。滞在時間は五分。

 

旅先で記念のスタンプを押したような満足感とともに店を出た。確実にデブが進んだ。

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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