はじめての月例【復刻版】-2009年5月24日公開-

はじめての月例【復刻版】-2009年5月24日公開-

諏訪湖カントリーにて ⛳ 初めての月例競技会に出場した。

 

 

 

 いまだに大叩きのリスクがあり、怖い。
 ルールの習得も不十分な自分が公式競技に対応できるか、が、怖い。
 勝負に徹した同伴競技者との神経戦が、怖い。

 

などの理由で月例デビューを先送りにしてきたが、変わり映えのしないスコアを垂れ流す日々にそろそろ飽き飽きしてきて、「月例に出ないと自分は一皮向けないのだ!そうに違いないのだ!」と強引に活路を求めてしまった。

 

 

 

朝起きたら、雨が降っていた。三日前にお客様の会社のゴルフ会で「年に一度の大叩き」をやらかしたばかりでテンションも極端に下がっていた。「インフルエンザにかかりました」と電話をしてさぼろうか、とも真剣に考えたが、その後のクラブライフへの影響を思い、渋々クラブへ向かった。

 

 

 

スタート前に「テントと机」のところに呼ばれ、サインをし、ボールを確認し、マーカーを指示される。自分以外の人のスコアをつける責任が早くも肩にのしかかる。

 

今日はストロークプレーではなく「アゲンストパー」でスコアを競う。各ホールにそれぞれのハンディキャップに応じた「パー」のラインがあり、その数字を下回れば勝ち(〇)、上回れば負け(✕)、同じなら分け(-)、である。トータルでいくつ勝ち越したか、あるいは負け越したか、で勝負が決まり、総合で+になれば優勝に絡めるらしい。しくみは面白いが、初参加の僕にとってはそのしくみを咀嚼すること自体が負担になり、さらに肩が重くなった。

 

スタートホールのティーショット。人がたくさん見ている。前にある人から、月例初出場の初ティーショットは「おしっこちびるほど緊張した」と聞いたが、僕はプロになったみたいな気分で楽しかった。ラウンドを通じて「緊張」には無縁だったが、そのかわり、自分でも驚くほどの「集中」が最後まで維持された。

 

公式競技と名が付き、「OK」も「リプレイス」も「プレイング4」も「同伴者との気楽な会話」も… 僕が普段嫌いな緩い部分が全て禁止され、それに加えて最初から最後まで合理的な選択肢を考えることが必要なモードに支配され、つまりゴルフが「スポーツ」になるとこんなに集中できるんだ! と、いうことを知った。

 

 

 

ロングホールで、OB→池 の連発があった。いつもならここから「崩壊」に向かうのだが、「競技」の名は僕の気持ちをつなげとめるのに十分だったようで、池ポチャ後の五打目からツーオンワンパットでトリプルを「拾う」。

 

ミドルで二打目のナイスショットがラフに入り予想だにしなかったロストに。五分間探した後、二打目の場所に戻って打ち直した四打目に二打目と同じ球が出て今度はフェアウェイに。 そこから寄せワンでダボを「拾う」。

 

六番のショートでワンオンしながらフォーパットを打ちダボに。パーなら「〇」だったのにそのホールを「✕」にしてしまった時は、その日最大のダメージを受けた。売店でお汁粉を流し込んで血糖値を上げ、何とか新しいリズムを作って臨んだ七番、八番でパーをもぎ取った流れの中では、たぶん僕はほとんど口をきいていない。

 

この三つの場面は、普段ならまず崩れただろう。もちろん運もあっただろうが、その都度最善を尽くせたのはいつもと違うメンタルコントロールがベースにあったからだと思う。そして、それぞれのピンチを脱するたびに、「この集中をずっと続けなくてはいけないものなのか…」と、心と体に痺れるような疲れを感じたのを覚えている。

 

 

 

僕の最終スコアは、「-3」だった。「-2」の人までが五位入賞に入っていたのでわずかに及ばずだった。まさか三日前にあんなに打った自分が、掲示板の前で最終集計を待つ人たちの中にいることになるとは思わなかった。

 

が、スコアよりも、メンタル面で勝てる感覚を今日初めて掴んだこと、そして、公式競技という環境設定が自分のメンタルマネジメントにプラスに働いたということに、とてもとても安堵した。

 

 

 

自分が昔体育会にいたことを、久し振りに思いだした。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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