さだまさし【復刻版】-2009年6月16日公開ー

さだまさし【復刻版】-2009年6月16日公開ー

足を診てもらいに大きな病院の整形外科に行った。たまたま部長先生に当たったが、会った瞬間、今まで会った医者にはないオーラを感じた。

 

とりあえずレントゲンを撮ったが、状況はかなり悪い。「骨に大いに異常あり!」だ。三日後のMRIの結果を見ながら、今後の治療方針を決めることになる。

 

先生は手術に言及した。今まで両手では足りない数の整形外科医にお世話になったが、これほど理論的に自信を持って僕の足の状況に手術が適応であることと、手術の詳しい手法を言いきった人は初めてだ。自分の足が今外科的療法を要求していることは自分が一番よくわかる。しばらくスポーツが出来なくなる可能性が高くなったというのに、なぜか心は晴れやかだ。

 

会社に戻ってその先生を検索してみたら、スポーツ医学の有名な権威だった。

 

 

 

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その病院のロビーでは、壁にかかった大きな掛け軸が目につく。その全面に、さだまさしの「風に立つライオン」の詩が ❢

 

以前、それを見て号泣した人の話を聞いていたので、その存在は知っていた。相田みつおのセリフのような書体で「描かれた」あの詩をこの場所で目にすると、やはりぐっとくる。

 

「風に立つライオン」は、さだまさしがアフリカの僻地医療に携わる実在の医師に感銘を受けて作った作品で、初めて聞いた時は僕もダラダラ泣いた。この曲を聞いて医者になろうと思った人は、スクールウォーズを見てラグビーを始めた奴と同じくらい多いはずだ。

 

 

 

 

唐突だが、僕はさだまさしマニアである。ただし、僕の知っている作品は、彼の四枚目のアルバムに入っている曲までであり、「風に立つ~」の時代の曲は、他にはほとんど知らない。

 

十五歳の頃からハタチ前後まで、僕の青春はさだまさしの歌と共にあった。。。のだが、そんなことを公言できるのは今だからであって、当時は「隠れ~」であった。

 

そのころ、世の中はフォークブームであったとともにハードロックブームでもあり、男子たるもの、「軟弱な」フォーク(少し後の「ニューミュージック」)など聴いてはならぬ… という風潮があった。

 

荒くれな男子校に身を置き、周りをひたすら気にしながら生きていた当時の僕に、開き直って「さだファン」をカミングアウトできるはずもなく、いつも学校ではロックの話に相槌を打ち、家に帰ると独り雨戸を閉め切った部屋を暗くして(なぜか雨戸は閉めなければならない)、当時の馬鹿でかいステレオから流れるさださんの世界に酔いしれていた。

 

彼のレコード-CDジャケットには、必ず「作詩 さだまさし」と書いてある。絶対に「作詞」ではないのだ。曲につけるためのものではなく、「それだけで『詩』として価値を持つものしか作らない」という、彼の「詩」への、そして言葉というものへのすさまじいこだわりの現れである。

 

中学から高校時代の僕は、彼の詩に「凄み」を感じていた。日本語へのこだわり方にも「狂気」を見ていたように思う。僕自身の日本語をいつくしむ感覚はそのころ芽生えたような気もしている。

 

 

 

 

「精霊流し」「雨やどり」「関白宣言」「防人の歌」など、彼を世に出した楽曲で彼が語られることをとても嫌がるところは、僕も他のコアなファンの方々のメンタリティーと同じだ。

 

精霊流しで「暗い」と言われ、雨やどりで「軟弱」と言われ、関白宣言で「男尊女卑」と言われ、防人の歌で「右翼」と言われ…

 

他に寒気がするほど凄い曲が山ほどあるにも関わらず、たまたま投げた変化球に世間が食いつき、いらぬアンチテーゼまで巻き起こしてきた彼。それを一番悔しがっているのが、一般大衆が知らない「直球真っ向勝負の楽曲の素晴らしさ」を知ってしまっているマニア達であるのだが、一方で、僕たちは彼のその不器用さも含めて愛していたのかもしれない。

 

 

 

僕の十代の後半に大きなインパクトを与え続けたさだまさしさんだったが、映画で莫大な借金を作り、それを返すためにコンサート開催数の不滅の日本記録を作るようになる頃からは、すこしずつ僕の心からは離れていった。

 

 

 

 

僕が三十九歳で諏訪に今の会社を作った時、出資してくれた会社の社長宅に挨拶に行って、腰を抜かすほど驚いた。

 

その社長宅のまさにお隣が「さだまさし宅」だった。

 

「最近はあんまり帰ってこないよ」「この前、さだ君の車がそこの溝にタイヤ落としてさ、一緒に車押し上げてやった」

 

社長の言葉を僕は呆然と聞いていた。「さだ君」… なんだ。

 

 

 

 

諏訪在住とは何となく聞いていた。お子さんが喘息で「空気の良い所を求めていた時、丘から見た諏訪湖が長崎の景色と似ていて決めた」という「諏訪に来た経緯」も、どっかで仕入れてはいた。

 

だが、急にこんなに身近になってしまうと、あの「彼と過ごした五年間」の思いが蘇ってきてしまう。

 

 

 

 

「い、いつか会えますかね」と動揺を隠しきれない僕に、「いつでも会えるっしょ」と社長。「あんなオヤジに何興奮しとんの?」という響きを含む。

 

もう僕はすっかり「会ったら何を話そう」モードに突入である。妄想は、社長の庭で開いたバーベキューパーティーにさださんもいて、僕がさださんの名曲をギターで弾き語り    というところまで膨らんだ。

 

 

 

 

結局、その後「感動の対面」の機会は訪れず、さださん一家は、諏訪の地を離れてしまった。やっぱり僕と「さだまさし」との距離は今も屈折したものであるようだ。

 

最近、何か月かに一回、NHKの深夜番組に登場するようになった彼。その普通のおじさんぶりを拝見すると、「やはり憧れは憧れのままがいいかな」と思ったりもする。

 

やはり、僕の「日本語観」の中だけで、生きていてもらおうかな、と。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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