おひるごはん【復刻版】-2008年12月2日公開-

おひるごはん【復刻版】-2008年12月2日公開-

東京駅にほど近いある企業を初めて訪ねた。

 

そこは僕が新卒で入った会社の近くだった。香港に飛ばされるまでの一年間通っていたところなので、懐かしかった。

 

通りやお店は昼食に出てくる会社員で溢れていた。二十四年ほど前、僕もこのあたりで先輩や上司の後をカルガモの子供のようにくっついて昼休みを過ごしていた。

 

 

 

十時くらいになると「今日は何食おっか?」と先輩たちが聞いてきた。今思うとろくな職場じゃないね。新人で大した仕事もしていなかったので、僕もヒルメシを楽しみに二時間を過ごした。 場所柄、選択肢は無限大にあったので、本当に毎日違うものを食べて楽しんでいた。知るぞ知るとんかつの名店、コムタンやカルビクッパの超うまい韓国メシ屋、安い旨いの元祖のような海鮮料理店、某有名洋食屋 … そんなところの格安ランチメニューを片っ端から試していた。昔の僕が羨ましい。

 

そして、毎日、食後に喫茶店でコーヒーを飲んだ。四十歳以上だと懐かしいと思う人がいるかもしれない。当時のサラリーマンは昼飯を食べた後、喫茶店(ドトールとかではない)でコーヒーを飲んだのだ。一時間の短い昼休みにどうやって時間をやりくりしたのか、そもそもなぜその必要があったのか、よく覚えていないが、午後の仕事に向けて気合を入れる儀式だったんだろうなぁ… たぶん。

 

 

 
アポの時間まで少しあったので、コンビニに入ろうとしたが、昼ごはんを買う人たちで押し合いへしあいの満員状態だったので断念。少しあたりを散歩した。やはり立ち食いそば屋や牛丼屋などの「かっこみ系」の店が列をなしていた。列はどんどん進む。ものすごい回転の速さだ。

 

今時、「お昼を楽しむ ♪ 」なんて悠長なこと言ってちゃいけないのでしょうかね。でも、毎日同じようなもの流し込んでたら心が荒まないかなぁ。「食」をないがしろにすると心の豊かさが損なわれる。心が豊かに保たれないといい仕事できないよね。

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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