「紹介」の怖さ【復刻版】-2008年12月7日公開-

「紹介」の怖さ【復刻版】-2008年12月7日公開-

昨日、国立の家に帰るのに、「どん行」を使ってみた。この間、鈍行という言葉が死語になっていると聞いて驚いた。普通列車のことですよ。最近、座席間が新幹線や「しなの」に比べて異様に狭いあずさに乗るのが少し苦痛になってきていたので、プライベートで時間にれ追われていないときくらいは… と、思い立った。

 

足が伸ばせたかわりに硬い座席でお尻が痛くなり、構造上の不快指数はどっこいどっこいだったが、上諏訪―高尾間を三時間かけてゆっくり進む中央本線小旅行はなかなか楽しかった。

 

少しうとうとして目を覚ますと、さっきと別の世界がある。高校生がいっぱいいたかと思えば、急におじいさんおばあさんたちだけになったり。普段の生活の中の電車だから乗客の生活がよく見える。電車の中に活き活きとした空気の動きがあることがあずさの中の閉塞感と大きく違い、あずさでの頻繁な移動が憂鬱になりかけていた「狭さ」以外の理由が図らずもわかったような気がした。

 

小淵沢駅でわずかな停車時間と戦って車内に持ち込んだ「天玉そば」は旨かったなぁ。

 

 

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今日お会いした旧知の社長さんから、「人の紹介」に関する悩みを聞いた。

 

大切な取引先の経営幹部から、人を紹介され管理職としての中途採用を薦められているという。確かに当該管理職ポストの充足は以前からその社長にとって大きな課題であり、社長はその「取引先幹部」にも「誰かいい人いませんかねぇ」と何度か話したことがあるらしいので、その紹介が善意から生まれたものであることには間違いない。

 

紹介された人のキャリアは今求められているものに対してオーバースペックではないかと思えるくらい申し分ないそうだ。ただ、その人のこれまでの転職の経緯などに少し違和感を感じるという。この後、面接に進んでいけば、当然大切な人からの紹介だけに選択肢の幅が狭まるだろう… ということらしい。

 

「取引銀行から経営参謀や財務担当幹部としての人材の受け入れを(経営再建対象というわけではないのに)要請された」「自社の経営陣の誰かが、または重要顧客が、自分の息のかかった人材や知人を連れてきた。」などという相談を受けたり、失敗例を耳にするケースはとても多い。

 

中途採用の対象が経営幹部層に近くなればなるほど、成功の可能性はピンポイント化し、失敗の可能性が大きくなる。経営者と志願者との価値観の合致度や「求めるもの」と「求められるもの」との整合性がより突き詰めて問われるのであるから当然だ。

 

上述のケースのように「断りにくい」状況ができてしまった時点で、「失敗」の確率が飛躍的に高まるのもまた当然のことである。

 

 

 

ちなみに、僕は、そのような「紹介」がうまくいった例を知らない。うまくいかないのは、「構造的必然」であり、「確率論」も絡む。「構造的必然」とは何か、いかなる「確率論」なのか…、 ここでは書けないので、知りたい方は僕に聞きに来てください。

 

 

 

 

「採る時は盛り上がって、採った時から悩みが始まる。」

 

わが国の経営者が普遍的に陥りやすいパターンだと思う。欧米の多くの経営者が採用時にリスク管理を重視するのに対して、日本の経営者は「期待」から入ることが多いようだ。採用を「怖いこと」と捉えるマインドが足りないように思う。

 

採用ミスによって双方が被る損害やその後双方が強いられる不幸をイメージでき、採用リスクを事前に推察しようとする経営者なら、「NO」という自由を制限される「紹介」など、できる限り遠ざけようと考えるだろう。

 

 

 

まっとうな社長なら、採用リスクに無関心であるはずがない。もちろん、無防備に紹介を受け入れることなどあり得ない。「うちは紹介を受けません」というスタンスをしっかり周囲に示しているか、誰が相手であろうが「断る可能性」を毅然と示して紹介を受けているか、どちらかであると思う。

 

至極当然のことだ。採った人がとんでもない人であることが分かった時、困るのも、損をするのも、鬱になってしまうくらい苦しむのも、全て当の社長であり、紹介した人は何の責任も取れないのだから。

 

 

東京の世田谷に生まれ(昭和35年)鎌倉に育ちながら、高校卒業後に関西へ流れ、大学卒業時には立派な関西弁を話せるまでに成長する。大学で体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルが出来なくて干され、徹夜のバイトが監督にばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージーを抱いて泣きながら寝た。卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人達とプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に5年間の任期を終えて帰国。その後、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついに重度の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを活かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。「世間からの評価」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し今に至る。37歳の時に入社した人事系のコンサルティング会社でアセスメントセンターに出会って惚れ込み、これを生涯の仕事とすることを決意。39歳の時に今の会社を設立した。歳をとっても痛くて苦しいことが大好きな「変なおじさんたち」が集う中年ラグビーチーム(不惑倶楽部)に所属していたが、50を前にして捻挫をこじらせ距骨壊死というややこしい状態に陥って離脱。10年間手術を公言し続けるも諸事情で実現せず「切る切る詐欺」と揶揄されてきたが、還暦を直前に控えた2019年の暮れに突如人口距骨への部品交換を決行した。「これでラグビーもゴルフもばっちりだぜ!」と、元々の技量と加齢という現実を忘れて妄想中。

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