私とアセスメント その4  手垢で汚れたフィードバックレポート

私とアセスメント その4  手垢で汚れたフィードバックレポート

創業から数年は、営業活動の甲斐あって、何社かの大規模企業に「審査型アセスメント」のお客様になっていただきました。

 

その中の一社では、昇進ではなく昇級試験の一環として審査型アセスメントが導入されました。その会社の経営陣には、三等級から四等級への昇級を「壁」としたい意向があり、「主任」という職位に就ける資格を有する「四等級」への昇級審査に私たちのアセスメントが組み込まれました。そして、その昇級審査の中でのアセスメントの比重を高める方針を打ち出し、「アセスメントを通過できなければ四等級へ昇級させない」というガイドラインまで設定してくれました。アセスメントで「合格点」を取れなければ他の審査項目にパスしていても三等級に滞留し、翌年またアセスメントを受け直さなくてはなりませんでした。

 

ただ、いくら「壁」と言っても、三等級に滞留する社員が大量に出ては困るので、「二度目」の社員には「配慮する」という不文律もありました。アセスメントは基本的にその人の「変わらない仕事力」を診断するものなので、「一度目がダメで二度目はOK」というのはおかしいのですが、まあそこは「昇進」でなく「昇級」なので、二度目の人については、自分の行動を変えようとする意識さえ見られれば「通過」ということにしていました。

 

 

 

実施初年度においても、数人のアセスメントが合格点に届かず、彼ら・彼女たちのその年の昇級は見送られました。その中に一人、目立つ青年がいました。長身で男前で、そして心なしかナイーブな影を持つ知的な若者でした。ただちょっと尖ったところがあり、初対面の時「生意気な奴だな」という印象を受けたことを覚えています。もちろん「生意気だから」アセスメントを通らなかったわけではなく、いわゆる「ワークスタンダード」に少し問題があり、「潜在能力は高いのに、省エネを志向して、いつもほどほどの取り組みに留まる」というようなことを「フィードバックレポート」に記したことも、よく覚えています。

 

昇級アセスメントの受験者には、後日、私が「フィードバック面談」を実施し、その時に「フィードバックレポート」を渡すことになっていました。あの「彼」に面談の順番が回ってきた時、私は少し緊張していました。その時点で私が「合否」を伝えるわけではないのですが、入社四年目の彼が今抱えている問題点に触れないわけにはいきません。

 

「できない人」に「できるようになれ」と言うのは残酷な話で、そんなフィードバックに何の価値も無いのですが、できるのに何らかの理由でエネルギーを抑え込んでしまう人に「持っている人は限られているのだから、その限られた人は、それを世のため人のために使わなければいけない」という原理原則を伝えることには、とても大きな意味があります。「彼のこれからの一年が意義あるものになるよう、どうしてもその概念の、せめてかけらにでも触れさせなければいけない」というプレッシャーと、あの「尖った」彼が、私の話を聞いてくれるだろうか、受け入れてくれるだろうか、という不安が入り混じりました。

 

しかし、そんな「心の準備」を重ねた自分自身を少し気恥ずかしく感じるくらい、彼は、静かに、素直に、私の話に向き合ってくれました。その表情には安堵感や開放感のようなものがあったのを覚えています。彼の心の中に何が起こっていたのか、当時はよくわかりませんでしたが、とにかく、自分の存在と言動が、彼に何らかの作用をもたらしたらしいことは何となくわかりました。創業後初めて感じる嬉しさでした。

 

 

 

そして一年後、彼は、昇級アセスメントを無事「合格」しました。「配慮」どころか、その年の最高点でした。一年後のアセスメントで生産性が激変するという例は、アセスメントの性格上あまり見られないのですが、彼のように何らかの理由で潜在能力に蓋がされていた人の場合は、やはり何らかの理由でその蓋がとれることもあり得ます。そして「例外」が生まれるのです。

 

フィードバック面談で、一年ぶりに私の前に座った彼の落ち着いた所作は、一年前と全く同じでした。でも、心なしか少し上がっているように見えた彼の口角が、(再会を嫌がってはいないのだな)と、私を安心させてくれました。

 

合格者へのフィードバックは楽なもので、それも目の前の相手は最高点のパフォーマンスを出した人間なので、私は、とても気持ちよく、彼を称賛しました。取り組みの質が前回とは比較にならないほど高かったのに、その日の生産性の高さを伝えるのに一生懸命になりすぎて前回からの伸び幅への言及が不十分になってしまったことを、後で少し後悔したりもしました。

 

終始、控え目な笑みを湛え自然体で私に正対していた彼は、私の話が終わるとふっと息を吐き、一言「ありがとうございました」と言ってペコリと頭を下げました。そして、一年前のものとは内容が全く違う「フィードバックレポート」を照れくさそうに受け取り、それを丁寧に鞄の中の一角に収めました。一瞬の間があり、彼は今閉めたばかりのファースナーをもう一度開きました。そして何やら折りたたんだ紙を取り出し、それを開いて私に見せたのです。

 

よれよれになった、去年のフィードバックレポートでした。

 

「奧山さんから言われたことを忘れないように、ずっと持ち歩いていたんです」

 

 

手垢で汚れたレポートの文字が、さらに滲みました。

 

 


東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。 念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。 「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。 「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。 50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

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