私とアセスメント その7  忘れてはいけない人

私とアセスメント その7  忘れてはいけない人

アセスメントはいかなる場合もひとりではできないものだと、私は思っています。どんなに経験が豊富なベテランアセッサーでも、論理誤差(自分の価値観や思考特性に強く引っ張られて、限られた情報から自分の好きなストーリーを描いてしまうこと)を完全に排除することはできません。だから、アセッサーには、自分のアセスメントが少しバランスを崩してしまっていることを気づかせてくれる、「もう一人のアセッサー」が必ず必要なのです。

 

私たちも、これまでずっと、アセスメントを実施する際には、必ず私を含めた2人以上のアセッサーが同じ演習を観るようにしてきました。私の初代パートナーは、Tさんという女性アセッサーでした。

 

 

 

彼女は、私が昔サラリーマンをやっている時の部下でした。稀有な「人を観る目」の持ち主で、人を「性善説的に」「期待を込めて」見てしまう傾向があった当時の私の「リスクマネジメント」を、いつもサポートしてくれていたのが彼女でした。今の会社を立ち上げる時、何人かの「元部下」がついてきてくれましたが、Tさんは、その中のひとりでした。

 

もちろんアセスメントは未経験のTさんでしたが、数か月間のオブザーブで要領を掴んだ彼女は、それ以降の約10年間、ずっと「サブアセッサー」として私の横に座り続けました。

 

Tさんのアセスメントは、生まれ持った「人を観る目」をそのまま持ち込んだものでした。それを敢えて表現すると、「天才的」「感覚的」ということになるのだと思いますが、彼女の導くアセスメントの評価は、私がそれまで学んだ知識と技術を懸命に総動員してたどりつくそれと、いつもそれほど変わらない水準にありました。サブアセッサーの出す「答え」に依存しそうになる自分を戒めることもあるくらいでした。

 

しかし彼女にも「弱み」がありました。「感覚的」な人の苦手なもののひとつに、「プロセスを残すこと」があります。「感覚的」というと「根拠無きもの」という印象を与えますが、実は多様で多数の言語・非言語情報を無意識的かつ極めて迅速に処理するプロセスが「感覚的に」と言い換えられています。しかし、「感覚的に」情報処理をする人の多くが、どの情報をどう処理したかを覚えていません。情報処理があまりに反応的かつ瞬間的過ぎて、「結論」である概念を導いた時には、既に「使った情報」を忘れてしまっているのです。

 

Tさんにおいても、この傾向が顕著でした。そしてそのことは、アセスメントに取り組むTさんをとても苦しめました。アセスメントは、人の行動を観察してその人の「特性」を炙り出せばそれでいいというものではありません。被験者の特性や傾向を述べる時には、どんな行動を観察した結果そこに至ったのかという「根拠となるプロセス」を必ず添えることが必要です。アセッサー同志がアセスメントを共有する際にも、お客様にアセスメントのフィードバックを行う時にも、アセスメントの結果だけでなく「プロセス」を示すことが、アセスメントの「肝」になります。Tさんのアセスメントは、「答え」は完璧だけど、「プロセスの開示」が不十分でした。積み上げたアセスメントではないので、毎回思考を逆回しして「自分が何を見てそう思ったのか」を思い出そうとしていましたが、その取り組みがとても辛そうでした。

 

私が彼女にアセスメントを教える時、アセスメントの現場ですり合わせをする時、いつも「根拠は?」という私の声が彼女に突き刺さりました。「表現」を苦手とする彼女が苦しみながら紡ぐその答えは、まさに「天才ならでは」の表現を含むことが多く、それはとても普通の人には理解できない代物でした。彼女のキャリアを思うと、その「天才ぶり」は私にとってストレスであり、何とかしなくてはいけないと思えば思うほど私はいらだちを隠せなくなるのでした。

 

「〇〇〇〇(Tの苗字)語をしゃべられても俺以外の人は理解できないんだよ!」    深夜のオフィスに怒気をはらんだ私の声が響くことも、少なくありませんでした。

 

 

 

そんなこんなしながらも、アセスメントの現場に行けば、彼女はとても頼りになりました。いつも全身全霊を傾けて人を観ていた彼女は、アセスメントが終わるといつも疲労困憊でした。

 

 

 

そんな日々が彼女を蝕んでしまったのでしょうか。2008年の夏の終わりに、Tさんから「辞意」が示されます。幸い重篤なものではありませんでしたが、いくつかの病気が重なり、今まで通り仕事をしていくのが難しい状況になってしまったのでした。

 

考えてみれば、もともとあまり体力に自信がなかった彼女に「会社が安定するまで手伝ってくれないか」と無理に参画をお願いしたという経緯がありました。なかなか会社が安定しないので、「卒業」のタイミングはどんどん先送りされ、いつの間にか彼女は役員の重責まで担わされていました。この「勤務延長」が、彼女の心身に過度の負担をかけてしまったことは想像に難くありませんでした。

 

彼女の「後任」がなかなか見つからなかったことも、彼女が長く会社に留まらなくてはならなくなった大きな要因でした。彼女が辞めることを前提とした「後任」の公募をしていたわけではないのですが、女性社員が次々と入社する中で、彼女は(アセッサーの役割をも含めて)自分の後を任せられるような人が入ってくるのをずっと待っていたような気がします。仕事に厳しい彼女のお目にかなう人はなかなか現れず、その結果、責任感の強い彼女は会社に留まり続けることになりました。

 

 

 

あの夏、彼女がやっと会社を辞める決心がついた背景には、前年に入社したSという女性社員の存在がありました。(Sが入社した時の話は、拙書「間違いだらけの優秀な人材選び」に出てきます) 一年余りにわたってSの仕事ぶりや人格を観続けた結果、やっと彼女は心から安心できたのだと思います。「これで私が辞めても大丈夫」と、十年近く背負い続けた重い荷物をやっと降ろせたのだと思います。

 

 

 

ずっと覚悟はしていたものの、いざ彼女の辞意に接してみると、私は思った以上に動揺しました。もちろん彼女には感謝しかありませんでしたし、「慰留する」などという甘えた気持ちは一切持ち合わせていませんでしたが、「アセスメントができなくなる」という恐怖で顔がこわばりました。廃業が頭をよぎりました。

 

すると、彼女は、全てを見透かしたような顔でいいました。   「Sさん、いけるかもしれませんよ」

 

事務職として採用した当時入社二年目のSは、確かに仕事はできましたが、アセッサーに育てることなど考えたこともありませんでした。だからその言葉はその時の私を救う一言とはなりませんでしたが、「気になる一言」として私の頭の片隅に留め置かれることになりました。

 

 

 

あれから九年が経とうとしている今、Sは押しも押されもしない「プロアセッサー」として、私の横に座っています。

 

あの「一言」は、人を観るプロであり続けた彼女の、最後の大仕事でした。

 

 

 

思えば、Tさんと仕事をしていた頃は、どちらかというと辛いことの方が多かったように思います。自分たちの仕事の質には絶対的な自信があったのですが、それを世の中に周知する術を持たず、それゆえにビジネスがなかなか広がらず、毎日が行き場の見えない戦いでした。今やっていることを続けていっていいのかな、という迷いも正直ありました。そんな中で、Tさんは自分が最も苦手なはずの「営業活動」にも不器用ながら一生懸命取り組んでいました。「会社が立ち上がるまで手伝う」と約束した彼女は、その約束を果たそうと必死でしたが、会社はなかなか一つの壁を破れませんでした。そして彼女は、「志半ば」で会社を去ることになりました。

 

今も、会社が大ブレイクしたとはとても言えませんが、アセスメントの臨床が積みあがるとともに理論の体系化が進んで事業としての価値が高まり、やるべきことに迷いなく専念できるようにはなりました。何よりも自分たちが取り組んできたことを理解し認めてくれる人が、ここ数年で以前とは比較にならないほど増えました。本を出したりしたことによって、会社の存在が少しだけ世間に知られるようになり、自分たちよりも周囲が変わりました。私たちはいつも「会社が立ち上げるまで…」と唱えていましたが、その「立ち上がる」が意味するところは、経営数字的なものではなく、この「社会に承認された感」の獲得だったような気がします。

 

Tさんは、この喜びを当事者としてもっと味わうべきでした。時間と私の努力が足りませんでした。

 

 

 

今、私たちは、人から必要とされる喜びを少し味わえるようになりました。でも、会社の歴史の前半戦には、そうなる日を夢見てあがいた日々がありました。その時代に一緒に汗をかいて会社の礎を築いてくれた人がいてくれたことを、決して忘れてはいけないと思っています。

 

今も私は、お客様の前やSの前で、よくTさんの話をします。尽力の割には光を浴びることが少なかったTさんのことを今だからこそ取り上げたくて、機会があれば、私は敢えてTさんの話を差し込みます。お客様にしてみれば、「会ったことのない人の話をされても…」でしょうし、「二代目」のSにとっても「偉大な初代」のことをたびたび聞かされるのは、気持ちの良いものではないでしょう。

 

でも、私の思いが何とか伝わっているのか、皆さんには許していただいているような気がしています。

 

東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。

念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。

卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。

「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。

「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。

50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

0 Comments

Leave a reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*