私とアセスメント その3  修羅場

私とアセスメント その3  修羅場

創業してから数年間、私たちのアセスメントの仕事と言えば、「審査型アセスメント」でした。どの会社にも、「壁を作りたい昇級(等級が上がること)と、昇進(職位が上がること)」というものがあります。昇級や昇進に、「ほとんどの人が通過できる比較的簡単なところ」と「誰もが一様に通過できるわけではなく実績や能力の差が反映される難所」とのメリハリをつけて、後者に重要な意味と権威を持たせようとするのです。

 

その難所において、上位等級や上位職において機能する人物か否かを測るためにアセスメントを使うことは、日本以外の先進諸国では一般的なことであり、この「審査型アセスメント」は、アセスメントの使い方として極めて合理的なもののひとつだと思います。 

 

私たちも、開業直後から、効果を訴求しやすく「売りやすい」このタイプのアセスメントのプロモーションに余念がありませんでしたが、間もなく、東京郊外の某企業から「昇進審査」の仕事をいただきました。その会社では、課長の役割を明確にし、「課長に求められるもの」と「係長以下に求められるもの」とが全く別物であるということを、全社に徹底しようとしていました。

 

課長職を「誰にでもなれるわけではない職位」と位置づけ、非管理職時代の実績や経験と課長適性とを切り離して考えて、アセスメントを使って候補者の能力に改めて向き合いたいというのが、その会社のトップの弁でした。私はその言葉に惚れ込み、そんな経営者と仕事ができることを誇りに思いました。

 

 

 

年に一度の「昇進審査」の中のひとつのメニューとしてアセスメントを組み込んでもらい、記念すべきその第一回は、その年の昇進審査も大詰めに近づいた二月某日、同社の会議室で行われました。課長候補の係長さんたち数名に、4時間にわたるアセスメントに取り組んでもらい、その後、社長以下、役員の皆さんの前でアセスメントの結果をフィードバックするという、最もオーソドックスなパターンです。

 

アセスメントの結果、大半の候補者に「昇進リスク」が浮かび上がり、私は、その結果を経営陣に伝えるべくフィードバックミーティングに臨みました。もちろん私は昇進の是非を提言するような立場にはありませんでしたが、「昇進したら課長として機能するか」「課長になったとしたらどんなリスクが推察できるか」などの情報を提供することが求められていました。私は、気を遣いながらも、ひとりひとりの受験者についての「シビアな現実」を伝えなくてはなりませんでした。

 

ある候補者について「少し厳しい見解」を述べた時、それまでの候補者の時は穏やかな表情で適度の相槌を打ちながら聞いてくれていた経営陣の顔色が変わりました。そして、私の発信が一息つくやいなや、彼らの口から「反論」や「批判」が次々と飛び出し、その場はたちまち紛糾して、私を凍りつかせたのです。

 

皆さんの話を総合すると、

 

「その人は、3か月前に○○(誰でも知ってる超大企業の会社名)の係長を辞めて来てくれた人なのだから、うちの課長が務まらないわけがないでしょう」

 

ということでした。実に突っ込みどころ満載の言い分なのですが、経営陣の皆さんは恐ろしいほど本気でした。私が惚れ込んだ社長は、困ったように腕を組んで目を閉じていました。

 

三顧の礼を尽くして来ていただいた「同業最大手の現職係長」。きっと会社側としては、彼に昇進アセスメントを受けていただくこと自体、気を遣われたのだと思います。そして、その人に関しては「ノーリスクの百点満点」と診断されるに違いない、と、誰もが疑わなかったのだと思います。そんなVIPのような方に対して、どこの馬の骨かわからないような若造コンサルタント(当時40歳!)がいきなりあれやこれやと言うわけですから、それは強い反発を生んで当然でしょう。

 

私は動揺していました。今と比べて何分の一の引き出しも持たない当時の私の言葉には説得力が致命的に乏しく、その場をきれいに収拾することなど、とてもかなわぬことでした。不信と不満が渦巻く空気の中で、私は考えていました。

 

「例えば、もし、私が有名な外資系コンサルティングファームの人間だったら、こんな事は言われないはずなのに」

 

「何のブランドも肩書もない自分が、これからこのような戦いの場を制していくためには、もっと強い心を持たなくては」

 

お偉方からのプレッシャーに半べそをかきながら自分の半生を憂いているヘタレ野郎が「強い心を」などと決心したところで、あまり現実的ではありませんが、あの時、私は健気にも本当にそう思ったのです。

 

そして、私はこんなことも考えていました。

 

「そして、戦いに臨むための準備として、皆の納得を得られるような緻密な論理武装が絶対必要だ!」

 

こちらの方は、「ごもっとも」な決心でした。以来、今に至るまで、私は、「アセッサーミーティング」を自分の主戦場と位置づけ、誰にどこをどう突っ込まれても理論が破綻しないように、頭の中で万全のシミュレーションをかけながらそこに臨むことが、すっかり習慣となりました。

 

 

 

翌年の昇進審査でその会社に再び出向いた時、あの時の経営陣のおひとりが、ボソッとおっしゃいました。

 

「去年の××さんね、奧山さんの言った通りだったよ」

 

「その後、同社経営陣の私に対する態度はがらっと変わりました」などという美しいストーリーが紡がれることもなく、あんなに私を「いじめた」のに、私の言ったことの方が「正しかった」ことが判明したのに、前の年、晴れて課長に昇格したあの方の「その後」に関するフィードバックは、後にも先にもその方のその一言だけでした。

 

少し釈然としない気持ちを心の片隅に追いやり、私は、前年と同じように、アセッサーミーティングで辛口の評価を口にしていました。やはり前年と同じように、多少の「批判」や「反論」は出てきましたが、VIPはいなかったこともあってか、何とか私は、「その場を制する」ことができました。心が強くなっていたかどうかは定かではありませんが、「論理」の方は少しばかりしっかりしてきたような気がして、それが無性に嬉しかったのを覚えています。 

 

「ほろ苦かった」採用アセスメントのデビューと違い、「審査型」のデビューは泣きそうになるほどの試練でした。でも、17年前のあの日、私は、「人を観る」だけのアセッサーから「人を観て人に伝える」コンサルタントへと変わっていくための第一歩を、早々に踏み出すことができました。

 

 

  17年前のこととは言え、会社や個人が特定されて守秘義務規定に触れることを避けるため、一部に少し「フィクション」を加えさせていただきました。でも、アセッサーミーティングでいじめられている時の様子は、全くの事実です^^

 

 

 


東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。 念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。 「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。 「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。 50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

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