他人に興味を持たない人

他人に興味を持たない人

ドトールなどで移動の合間に書き物をすることが多い私ですが、基本的に集中力が無いので、大抵、「休憩の合間に仕事をする」といった具合になります。その「休憩中」に、ただただ何もせず、「目を開けたまま眠る」のが好きなのですが、たいていまわりに一組か二組は声の大きい人たちのグループがいて、なかなか休むことにも集中できません。

 

実は、嫌でも耳に入ってくるその人たちの会話の「ひとつの傾向」が、少し前からとても気になっています。「相手に何かを問いかけ、それに対して相手が答える」が繰り返される構造のコミュニケーションにお目にかかることがほとんどなく、「ひとりばかりが話し、その他が聞く」という独演型と、「誰かが自分の言いたいことを発信したら、次に他の人が自分の言いたいことを発信する」という発表会型ばかりが耳につくのです。

 

考えてみれば、採用アセスメントの選考母集団の中でも、「自分が発言することを目的としている」「常に自分本位」と診断される人が楽に半数を超える今ですから、巷に、「他人に興味がない人たち」が溢れていても不思議ではありませんよね。そもそも公共の場ででかい声を出していること自体が、その人たちが自己中心的であることを示しているわけですが。

 

 

 

「他人に興味を持たない人が増えたなあ」と、実感する今日この頃です。しばらく話をしていてふと気が付くと、あれ?自分の事ばかり…。ちょっとこちらの事も聞いてもらおうと自分の事や会社の事に触れると、うん?、こっちを見て聞いてはくれてるけど、多分話が入ってないな、うん?目が泳いでる?、、、なんてことが日常茶飯事になってきました。そういう方々でも、私がその人やその人の会社を褒めている時や、その話が自分の利害に絡む時には実に積極的に話を聴いてくれるのですけれど。

 

私たちの仕事内容に「興味を持った」ということで、お客様としてでなく、業務提携や共同研究の可能性を求めて私たちを訪ねてくれる方が少なからずいらっしゃいます。そして、その方々の中にも、自分のことばかり話して私たちのことを全く尋ねない人がかなりの割合で含まれます。「あれ、僕たちの仕事に興味を持ったんじゃないの?」と、いつも不思議な気持ちになってしまうのですが、「この人たちは、僕たちに興味があるのではなく、僕たちのやっている少し変わったことにアプローチした自分が好きなんだ」と、最近は納得するようにしています。もちろん、その人たちとの「2回目」はありません。

 

 

 

当社の社内アセッサー養成のテキストに、「自己への執着が強く精神的に自立しない人に見られる日常行動チェックリスト」を載せているのですが、その中に以下のような項目があります。

 

☑ 自分のことばかりを延々と話す

自己目的だけに支配されて自分の殻の中で動くので、他者には興味が及びません。長話を聞かされる相手の心情に寄り添うことなど、到底できません。

 

☑ 相手に関する情報を聞き出そうとしない

自分の殻の中で動く人は、相手に関する情報(何者なのか?何を考えているのか?など)を欲しがりません。長時間に渡って話をしても、相手に関する事は何一つ聞こうとしません。ただし、自分の利害に絡む場合に限り、相手に質問する気持ちが生じます。

 

☑ 自分を褒めてもらえる話題のみを好む

相手自体には興味がありませんが、自分を褒めてくれる相手のことは大好きです。ちなみに苦言を呈する人は徹底的に遠ざけます。

 

この3つは、「他人に興味を持たない人」が普遍的に見せる行動特性ですが、これらは、1対1の会話の中で比較的容易にキャッチできます。だから、「他人に興味を持たない人」の見極めに関していえば、アセスメントを介しない日常の対人場面の中でも、上述の行動から相手の幼稚性を感じ取ることで、ある程度の精度を期待できると思うのです。

 

「他人に興味を持たない人」と話をして、こちらに全く心を寄せてこない様を見せつけられると、多くの人は不快感に近い違和感を抱くはずです。その違和感こそが、人を観る感性そのものであり、その違和感を大切にすることで「人を観る目」が強化されます。その際には、「相手が自分に興味が無いのは自分に力量や魅力が不足しているから?」などと感情のベクトルを自分に向けたり、情緒的に相手の人格を否定したりすることはやめましょう。相手の特性に淡々と向き合うことで、相手の本質が見えてきます。

 

「他人に興味を持たない人」がそうなってしまっている背景には、「自己愛」や「承認欲求」や「自己顕示欲」や「自己防衛の意識」などが強すぎ、エネルギーが自分の感情の処理ばかりに使われて、自分以外のために使われるエネルギーが残っていない状況があると思われます。この状況は、今まで何度も述べてきている「対象に向き合わない人」のそれに他なりません。

 

「他人に興味を持たない人」を認識するということは、当然ながら「対象に向き合う力の無い人」を認識することになり、「仕事場での生産性が低い人」を認識することになります。「他人に興味を持たない人」であると分かった時点で、その人が「仕事力に問題のある人」であることがほぼ確定するのです。

 

1対1の会話の中で、「この人は他人に興味が無いんだな」と感じ取ることは、ある程度の情報感性の持ち主であれば、実は、それほど難しい事ではありません。「無視される事や自分が軽視されることに敏感である」という人間の自尊心絡みの本能のせいなのか、人は自分に興味を持たない人に対してそうそう寛容にはなれないからです。

 

アセスメントという特殊な設定を使い、プロのアセッサーが必死になって行動分析を行った結果、やっと辿りつくことができる「対象に向き合う力が無い」という診断を、普通の会話から導けるというなら、それはとても有難い事であり、「おいしい」ことです。平時の日常行動を観てその人の本質を知ろうとするのはとても難しいことですが、「他人に興味を持たない人」と認識することから始まるそのプロセスだけは、数少ない例外と言えるのかも知れません。

 

と、いうわけで、「他人に興味を持てる人か否か」という視点は、アセスメントを使わない日常において人を見極めなくてはならない場面で、極めて有効です。例えば、「採用面接」で応募者の本質的な仕事力を見抜く事は極めて難しいと、私は常日頃から思っています。平時の短時間においては、表層的で限られた質量の情報しか入手できないからです。しかし、応募者の「他人に対する興味」を感じ取ることができれば、そこに「例外」が生まれるかもしれません。

 

 

繰り返しになりますが、「他人に興味を持てる力」は、数ある能力の中のワンオブゼムではなく、たくさんの重要要件を包括的に含む、実に集約的な要件です。だから、人を観ようとする人が、対象のその部分に注目する事には、大きな価値があります。念のために付け加えるなら、その力と、見かけの社交性や親和性などとは、全く無関係です。表面的に作られた行動とは別次元の「内面」を「比較的容易に感じ取れる」という点で、やはりこのアプローチは、極めて「例外的」なのだと思います。

 


東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。 念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。 「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。 「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。 50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

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