私とアセスメント その5  ルーツ

私とアセスメント その5  ルーツ

創業4年目くらいから数年間、Y社というメーカーさんとお付き合いさせていただきました。当時の従業員数は軽く六百人を超え、当社のクライアントさんとしては珍しい「大規模企業」でした。当時の例に漏れず、管理職の適性診断という「審査型アセスメント」を依頼されて仕事が始まり、リーマンショックで業績が悪化するまでの数年間にわたってお世話になりました。

 

仕事力の任務への適応度を診断する「審査型」の仕事は、私たちアセッサーがアセスメントに「専念」することが多く、アセッサーと受講者との交流感に著しく欠けるという一面がありました。受講者の皆さんが、「どこの馬の骨ともわからない人間がいきなり土足で乗り込んでくる」「心地よい現状が荒らされるのでは」という違和感や嫌悪感を抱いてしまうのも致し方ないところでしょう。審査型アセスメントのアセッサーは、Y社だけに限らず、顧客企業の社員には概して嫌われました。

 

ある会社では、アセスメントの事務局をされていた人事担当者の方が、受講者となった課長職に「こんなことやっていて面白いか!?」 と凄まれたそうです。また、別の会社では受講者だった社員に後日メルマガを送ったところ、「くだらないものを送ってこないでほしい」との配信拒否メールをもらってショックを受けたりしました。Y社でも、「面接演習」という1対1のケーススタディで、部下役を演じる当社社員の「受講者の説得に反抗する演技」が真に迫りすぎて少なくない受講者の心を折ってしまい、その演習後も不穏な空気が流れたことがありました。その後、私が受講者の皆さんに、「今後彼女を見かけることがあっても、石など投げないようお願いしますね」と「お詫び状」を書きました。

 

人の心の深いところにアプローチする仕事をやっている限り、そのようなことは避けられないのだ、と、自分に言い聞かせてはみるものの、やはり「嫌われ者」になるのは嫌なものです。「会社のために」という大義名分はあるものの、精神的対立をたくさん背負ってしまう仕事をこの先長くやっていけるのか、という不安が少しずつ頭をかすめるようになってきました。

 

Y社の「審査型アセスメント」を、相変わらず少しギスギスした空気の中でこなしていきながら、私はこのようなことを考え始めていました。

 

「アセスメントは実効的な成果を求めて行うものであって、まやかし的なものであってはいけない」「アセスメントは経営者を助けるものでなくてはいけない」という自分の思いが強すぎて、アセスメントのプログラム作りや運営に変な囚われや力みが出てしまっているのではないか。
経営者だけでなく参加者である社員にも受益者になってもらうことと、アセスメントの本質的成果にこだわることとは、相反しないではないか。
「人は変わらないものであり、経営においては教育よりその人を知ることの方が重要」という自分の考え方が変わったわけではないが、根本が変わるというよりも能力が発揮されやすくなることで起こる「変容」はあり得るのではないか。

 

創業4年を経て、創業時の理念らしきものに縛られて頑固に凝り固まった心が、現実に揉まれて少しずつ溶け始めました。

 

 

Y社では、管理職全員をアセスメントする「現役マネージャーの審査」を終えると、監督職以下を対象とする「管理職早期登用に向けた審査」を依頼されました。求められる機能が「厳密な適性審査」から「能力開発を伴うもの」に変わる機会を捉えて、私は、「審査型プログラム」の内容を大きく書き換えることにしました。

 

今までこだわっていた「Win/Win」を、受講者満足を加えた「Win/Win/Win」に変えていく取り組みは、私にとって簡単な作業ではありませんでした。「経営人事への有効情報の提供」という本来の機能を薄めた「研修色の強いアセスメント」を否定して創業した私ですから、そのマイナーチェンジが「経営者のために」を薄めてしまっては本末転倒です。また、「受講者満足」を考えるといっても、受講者に媚びを売ったところで、得をする人はいません。そして、一番の問題は、私自身の根っこに「研修嫌い」があることです。「インタラクティブ(相互作用的)」の名の下に、講師の型に受講生をはめ込んで不毛な「参加型」を演出するような研修に、昔、間違って参加してしまったことが何度かあり、その度に耐え切れなくなって、急用をでっちあげ途中で逃げ出しました。講師側の都合で作り上げたストーリーとフレームに受講者を無理やり押し込め、受講者の労力を無駄に借りまくった結果、強引に予定調和に持って行くような研修は少なからず存在すると思います。受講者に向き合う要素を増やす取り組みの中に、そんな方向に近づくような要素が少しでもあったなら、その取り組みは完全な「改悪」に他なりません。

 

「審査型アセスメント」を実施するにあたって受講者に対するサービスを考えるなら、そのアセスメントの意義や、できればアセスメントで得た情報について、限られた時間でできる限りのフードバックをしてあげることが、賢明な受講者にとっては一番うれしいはずです。アセスメントの意義は、その時の会社の意向やメンバーの層によって変わります。フィードバックは本来個別のアセスメント結果を会社側や時に受講者各自に伝えるものですが、この場合は、全体に向けたフィードバックでありながら受講者全員が何らかの気づきを得られるものを提供しなくてはなりません。研修講師が自己満足で決めたお仕着せの結論を押し付ける様なものではなく、講師が受講者と向き合い(アセスメントするのだから向き合えて当然なのだけれど)、その時の受講者に最も響く情報をその時の講師が選択して提供してあげれば、受講者も「アセスメントされるプレッシャー」は感じながらも、その日の数時間をそこに注いだ価値を実感できるでしょう。

 

私はそこを目指そうと思いました。講師の技量が大きく問われることになり、それこそ持てる「概念化能力」をフル稼働して受講者と向き合わないと、その実現はかなわないとも思いました。日頃「概念化能力」の重要性をみんなに説いている身なのだから、当然、背負わなくてはいけない困難なのだ、、と事あるごとに自分に言い聞かせていたのを覚えています。

 

新たに始まった「管理職早期登用アセスメント」は「登用されること」を狙った精鋭の若手が募る場となったので、それなりにぎらぎらとした雰囲気はありましたが、それでもプログラムの変更によって現れた大きな変化がひとつありました。それは「受講者の笑顔が見られること」でした。今まで、アセスメントの場で、いかに「笑顔」を目にしてこなかったかを思い知らされました。新たな取り組みにはもちろん試行錯誤もあり、全ての受講者にインパクトを残せたわけでもないのですが、「Win×3」は普通に可能であることを知り、これから何とか仕事を続けていけそうな気になってきた「その頃」でした。

 

 

Y社の「管理職早期登用アセスメント」で始めた新しい試みの中に、「インバスケットのふりかえり」というのがあります。インバスケット演習の終了後、1時間以上使って私と受講者の皆さんでわいわいやるのですが、目的は「情報の概念化のプロセスを体感すること」です。お互いものすごくリラックスした雰囲気で、ものすごく難しいことをやるのですが、やり終えた後誰もが「概念化」というものを一応理解する(大いに個人差はありますが ^^; )、という自称「すぐれもの」です。

 

大きな声では言えませんが、このセッション、偶然の産物なんです。「管理職早期登用~」のプログラムでは、インバスケット後の1時間は受講者の顔色や理解度を見て何をやるか決めようと思っていました。初回のその日、メンバーを半日追いかけていたら、なぜか思い切り開放感を出したくなって、今までやったことのない「フランク」と「リラックス」と「ダイナミック」が混じったような表出を試してみました。そしてその雰囲気の中でこそ現れる受講者のニーズを読み取り、そこに深くかかわる情報を提供しようと思ったのです。私の「キャラ変わり」には、Y社の経営者や見学者の皆さんもさぞ驚かれたことと思いますが、そのセッションは、私のそれまでの経験の中で最も情報交換量が多いものになりました。そのセッションの快感が忘れられず、次の日もまた次の日も、同じようにやってみました。受講者や周囲の評価の良し悪しはわかりませんでしたが、私は大きな手ごたえを感じました。何がそうさせたのか何に導かれたのか未だにわかりませんが、ずっと「薄暗い職人アセッサー」に徹していた私は、あの日、初めて「インストラクター」になりました。

 

そして、あれから12年経った今も、私たちの社内アセスメントのラストを飾るのは、あの「インバスケットのふりかえり」です。あれから、多少のバージョンアップはなされましたが、基本スタイルや目的は全く変わっておらず、嬉しいことにほとんどのお客様から大好評をいただきます。見学の経営者の方々が夢中になってインバスケットをめくられる姿も、すっかり見慣れた光景となりました。12年前Y社の会議室にて偶然の思い付きで生まれたセッションが、今、私たちの価値を支える優位性のひとつとなって輝いています。

 

 

それからもうひとつ、その頃のY社で新たに生まれたものがあります。アセスメントを受けた管理職や監督職の中から適性のある人を選んで「社内アセッサー」に任命し、実施されるすべてのアセスメントに参加してもらう中でアセスメントを教えていく、という取り組みを始めたのです。今、私たちの主力ビジネスとなっている「アセスメント内製化」のルーツはここにあります。

 

アセスメントで「対立関係」になることも多かった受講者に「今度はアセスメントを行う側にまわってもらいましょう」という試みは、当時としては画期的でしたが、アセッサー側に回った人のモチベーションの動きに触れるのは楽しかったし、何よりアセスメントを受けた社員の方々との立場を変えてのふれあいが教えてくれたものの価値は、計り知れないほど大きなものでした。

 

「アセスメントを教える」と言っても、教える方法についてはまったく手探りでした。当時、どこを探しても「アセスメントの教え方」を示したものなど存在しなかったので、自分で考え、生徒さんの反応や吸収を見ながら、自分で指導体系を固めていくしかありませんでした。大変でしたが今から思うと実に楽しい時間でした。「アセッサー教育のノウハウ」は今の私たちにとってかけがえのない財産ですが、そのノウハウづくりは、あの時にスタートしたのです。

 

夜遅くまで続く「アセッサーミーティング」は本当に大変でしたが、皆さん、何故か本当に楽しそうでした。夕食には、近所のお店からかつ丼をとってみんなで食べることが多かったのですが、これがまた妙に旨かった。私が今もよく講義で使う「すみません!また作業してしまいました! とミーティングに遅れて飛び込んでくる課長の話」のネタ元も、その時のアセッサーミーティングでの実話です。この逸話は「同じ作業に追われてしまう課長も、作業に喜んで甘んじる課長と、作業に時間を取られることに罪悪感を持つ課長とでは雲泥の差があるんだよ」ということを伝えたい時に実に便利で、いつも顔を真っ赤にして部屋に飛び込んできたあの若手課長に「感謝」です。Y社の社内アセッサーは、どなたも驚くほど真面目でした。皆さん経営陣でもないのに「会社をよくするために」というテーマに立脚した熱っぽい人材論が語られることに、心地よいショックを受けたのをよく覚えています。皆さんのアセスメント技術は回を追うごとに向上していきました。私はそれを見て「アセスメントって教えられるんだ」と、初めての自信を得ることができました。

 

 

今、私たちが得意としているもの、お客様から認められているものの「原型」が、10年以上前にY社で生まれました。あの時、まだ駆け出しの私たちに、分不相応ともいえる広大な活動領域を提供してくれたから、私たちはそこでいろんなことに挑戦することができました。そしてその厚意に応えようと、私たちは限界に近いところまでエネルギーをぶつけていました。あの集中力が奇跡的な創造物を生み出し、それらが今の私たちを助けてくれています。

 

Y社にはその後色々と大変な時期もあり今現在私たちとのご縁は途絶えていますが、きっとどこかで恩返しができると信じています。あの会社で生まれその後十年以上かけて育てあげたノウハウで、いつかあの会社に新たな貢献をもたらしたい。移ろいやすい私にしては、結構底堅いモチベーションです。

 

 

その時のY社の人事担当者T氏は、実に濃密な時間を共有した戦友です。今でも時々忘れた頃にお会いして近況だけを確かめ合う、というお付き合いをさせていただいていますが、彼が私の昔のブログに「一番弟子」のペンネームでコメントをよせてくれたことがあります。その時は、よせやい「弟子」なんてと喜びながらも面はゆく感じていましたが、顧客各社でたくさんの「生徒さん」にアセスメントを伝授している今思うと、第一号生徒の彼は本当に「一番弟子」なんですね。

 

Tさん、「弟弟子」と「妹弟子」がいっぱいできたよ!

 

 


東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。 念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。 「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。 「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。 50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

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