私とアセスメント その2  ほろ苦いデビュー

私とアセスメント その2  ほろ苦いデビュー

独立後最初のアセスメントの仕事は、ある小さな商社の中途採用を支援する採用アセスメントでした。今から17年前のことです。

 

 

アセスメントは13時スタートだったので、昼食をとるために、部下(女性のアセッサー)を連れて近くの回転寿司屋に行ったのですが、彼女は、一皿の半分だけに手を付けただけで、箸を持つ手を止めてしまいました。極度の緊張で食べ物が喉に通らなかったのです。そんな彼女を見て、私も「これから初アセスに向かうのだ」という実感がやっと湧いてきました。

 

12時半頃、会場入りし、準備を完了させて、応募者の人たちが来るのを待ちました。その回は5名が参加する予定で、4名までは早々に揃い、「残りの1名待ち」となりました。ところがその1名は開始予定時刻の13時になっても現れません。いつもの穏やかな表情をだんだん曇らせ始めた同社の社長が、そっと私に耳打ちしました。

 

「電話をしてみましょうか?」

 

遅くなるなら応募者の方から連絡してくるのが筋だと思った私は、「こちらから電話をするのも変な話なので、あと5分待って来なかったら、欠席扱いにして始めちゃいましょう」と答え、社長も「そうですね」と言ってくれましたが、「心ここにあらず」の様子が見て取れました。

 

空いた時間で水を買って来よう、と、私は思い立ち、オフィスを出て販売機のある階下に降りました。ペットボトルを2本持ってすぐにオフィスへ戻ると、ちょうど社長が裏のベランダに出ていくところでした。そして、社長がこっそりと(そう見えました…)携帯電話のボタンを押す場面を見てしまい、そして「訪れぬ応募者」と電話で話すのを聞いてしまったのです。

 

「わかりました。じゃあ、今回は辞退ということで…」と電話を切って、社長は部屋に戻ってきました。そして私がいるのに驚いた様子で、「辞退されるそうです」と気まずそうにおっしゃいました。きっと社長は、私がこんなに早く戻ってくるとは思わず、どうしても心を残していたその応募者に、私のいないわずかな隙を狙って連絡を試みたのでしょう。

 

「無断キャンセルを決め込みながら、よく電話に出られるものだ」と、あきれましたが(そんなのは日常茶飯事であることを、その後思い知らされるのですが)、結局その日の採用アセスメントは4名の応募者を対象に実施されました。アセスメント→フィードバックという採用アセスメントのプロセスはつつがなく進行し、その診断結果は、社長の納得を得られるものだったと思います。その日は残念ながら通過する応募者が出なかったので、次のアセスメントの予定を決めて、私たちはその会社を後にしました。こうして、私たちの「初アセスメント」は、表面的には無事に終わりました。

 

 

 

しかし、帰途につく中、私の心にへばりついていたのは、こっそり「現れぬ応募者」に電話をかけるあの社長の姿であり、自分が社長の心に寄り添えなかったことへの後悔でした。「無断でキャンセルするような奴はとんでもない」「そんな人間にこちらからアプローチすることはない」という、「第三者的正論」ばかりが、あの時の私の頭を占めていました。たくさんの思いを込めて臨んだのであろう採用活動の中で、一生懸命集めた選考母集団の中の1人が欠けてしまうかもしれないという状況は、社長にとって辛すぎたのでしょう。「もしかして日時を間違ったのかも知れない」「道に迷ったのかもしれない」などという不安も押し寄せて、いてもたってもいられなかったのでしょう。そんな、社長の気持ちを、私は全く推し量ることができなかった。

 

「悩める中小企業の社長を救うためにアセスメントを活用するのだ」などというカッコいい理念を掲げて起業したのに、目の前にいる社長の気持ちも斟酌できないのでは、単なるアセッサーロボットではないか。。。その夜、私はまずい酒を飲みました。

 

 

こうして、私の「アセスメントデビュー」は、「ほろ苦い」ものになりました。でも、その苦さが、その後の長きにわたって、ともすれば「原理原則」「正論」に執着しがちな私の思考を、理屈だけではない「経営者の心情」に向き直させる、強力な「薬」になっています。

 

人を採用できるまでに会社の状況を作り上げたのは社長であり、人を採用することを決めたのも社長であり、お金をやりくりして採用の費用を捻出したのも社長であり、応募者の集まり具合に誰よりも気を揉んでいたのも社長であり、そして採用した人とその後ずっと付き合っていくのも社長なのです。私は、そのプロセスのほんのワンポイントに絡むだけ。その私がそのポイントで社長の心に寄り添えないのは、社長の「それまで」と「それから」を無視するのと同じこと。

 

そんな大事なことを教えてくれた「初仕事」は、その後長きにわたる私の仕事人生に大きな影響を与え続けることになります。その幸運なスタートがあったから、今、何とかやっていけているのだと、本当に思っています。

 


東京で生まれ(1960年)、鎌倉で育ちながら、京都に憧れて高校卒業後に関西へ流れるが、何故か大阪の大学(関西大学法学部)へ入る。 念願の体育会ラグビー部に足を踏み入れるも、タックルができなくて干され、徹夜のバイトがばれて干され、と、「なんちゃってラガー」への道をまっしぐら。4年生でやっと公式戦への出場がかない、初出場の日の前夜は、ジャージを抱いて泣きながら寝た。 卒業後に入った商社で、早速、語学難民となり、「このまま日本に置いておいてもこいつは英語を覚えない」と当時の事業部長に判断されて、入社後1年も経たないうちに香港の現地法人に飛ばされる。現地の英国人たちとプレーする中でようやく面白くなり始めたラグビーの合間に仕事も少しだけ頑張る、という充実の日々を送り、バブルもはじけた平成2年の春に、5年間の任期を終えて帰国。 「国際人の俺様にはもっと大きい会社がふさわしいのさ」と、わけのわからないことをつぶやきながら、いわゆる大企業の海外部門を転々とするが、会社と仕事が肌に合わず、日に日に心が萎んだ。ついには重症の抑うつ状態にまで陥ってしまったが、そこに至ってようやく、「自分の強みは本当に『国際』『語学』なのか?」「本当に自分の良さを生かせる仕事は何なのか?」というテーマに、正面から向き合うことになる。 「世間からの見られ方」への執着を断ち切り、自分の価値観に正直になって新たなフィールドを選んでからは、心の元気を取り戻し、今に至る。37歳の時に入社した人事系コンサルティング会社で「アセスメントセンター」に出会って惚れ込み、これを生涯の生業とすることを決意。39歳の時に、今の会社を設立した。 50歳近くまで続けていたラグビーだったが、試合で足首をややこしく負傷してしまって以来、プレーをしていない。復帰するには手術が必要で、数年前から「今度手術するんですぅ」とあちこちで触れ回っているが、諸事情で延期が繰り返され、周囲からは「切る切る詐欺」の声が聞こえ始めている。

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